大山道を歩く

No.10


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第10回 愛甲石田駅前〜石田交差点〜小金塚バス停〜JA成瀬支所〜高部屋神社前〜咳止地蔵〜峰岸団地入口交差点〜東〆引の道標〜石倉橋バス停

H30年10月16日   

 10:30、小田急江ノ島線の愛甲石田駅前に、7名が集合、秋晴れとはいかないが、歩くにはちょうど良い天気だ。大山街道歩きも終盤となり、本日の目標地・石倉橋に向け歩きはじめる。


 愛甲石田駅南口から右方向に向かい、小田急線の踏切を越え、国道246号に合流し暫らく進むと右側に浄心寺の山門が見えてくる。

 浄心寺は天正2年(1574)の開山で、開祖は相譽上人である。茅葺屋根の山門が印象的だ。石田村岩崎家の菩提寺だそうである。


 浄心寺を出て少し歩き、石田交差点で左斜めに入る。谷戸入バス停の手前を左に折れ小田急線の踏切を渡り、少し進み右折するとその先に長龍寺がある。

 長龍寺は、浄土真宗で江戸時代当初は東本願寺の末寺、享保年中(1716〜35年)に西本願寺の末寺に移され、慶安2年(1649年)に寺領として10石の朱印状が与えられている。


 長龍寺の先の右手方向にこんもりと茂った台地がある。この辺りが小金塚である。

「小金塚古墳・小金神社」
 小金塚は、直径45m、高さ6mの相模最大の円墳で、周溝からは、4世紀末頃の朝顔型埴輪が出土している。墳頂は広い平坦面で小金神社社殿が建立されている。祭神は金山彦命で、金物を鋳る術の神様と言われている。

 小金塚から細い道を通り、小田急線に沿って少し歩き、通りに出てすぐに右手の小田急高架の下をくぐる。突き当りの右手には道祖神がひっそりと置かれている。突き当りの左に、小金塚バス停があり、そのすぐそばに道標がある。この道標の場所は「船着場」と呼ばれていて、昔、この辺りは海(おそらく湿地帯)だったそうである。


 道標から緩い上りになり暫らく進むと左側に成瀬小学校があり、この先で、右手から来た旧道(現在途中道がなく、我々は新道を歩いてきた)と合流する。そこに地蔵堂がある。この辺りは白金と呼ばれていたので、白金地蔵という。

「白金地蔵」
 万延元年(1860)この地の住人茂田半左エ門が子宝恵授を祈願して建立祭祀し、子育地蔵・諸病平癒・平穏安楽の菩薩として厚い信仰を集めている。

 この先、JAいせはら成瀬支所前のT字路を左折、緩い坂を下り、歌川橋を渡る。ここから大山が間近によく見える。


  成瀬小学校入口交差点を横切り、道路左わきにあるかわいらしい道祖神を見ながら暫らく進むとT字路にぶつかる。ここで柏尾大山通りと合流し右へ行く。ここからが糟屋宿の始まりである。


  糟屋宿は、かつて相模国大住郡下糟屋村(現・神奈川県伊勢原市下糟屋)にあった、大山道の宿場(継立場)で、上宿と下宿で構成されている。
 糟屋という地名は、鎌倉時代初期、鎌倉幕府の御家人でありこの地の荘司であった糟屋藤太有季の名から付けられている。
 江戸から15里の宿には旅籠、問屋、万屋、薬屋、質屋などがあり、大山詣の旅人や物資を運搬する人が集まり賑わっていた。

 粕谷下宿バス停の少し先右側に普済寺に入る参道がある。

「普済寺」
 普済寺は、上杉寺月鑑明公が開基、節翁中勵(文正元年1466年卒)が開山となり創建、慶安元年(1648)寺領10石の御朱印状を受領したといい、伊勢原神宮寺の菩提寺といわれている。
 普済寺にある石造多宝塔は、江戸幕府の命を受け、蝦夷(現在の北海道)国泰寺の第5代住職として赴任した、高部屋神社の神宮寺住職の文道禅師が、7年の任期を勤め上げ、神宮寺に戻り、天保9年(1838)にこの石塔を建立したもので、明治元年の神仏分離令により神宮寺が廃寺となり、普済寺に移設されたものである。

 普済寺を出て、粕屋上宿バス停の先の十字路で、大山街道からそれ左折し、坂を下ると、渋田川に架かる道潅橋に出る。この橋を渡ってすぐ左側に、大田道潅の菩提寺である大慈寺がある。そして、その向い、渋田川に沿った少し先には道潅の墓(首塚)がある。

「大慈寺・大田道潅の墓」
 大慈寺は貞治5年(1366)鎌倉に開山、文明18年(1486)に太田道灌がこの地へ移して再興したと伝えられている。太田道灌画像と木造聖観音坐像が伊勢原市の文化財(絵画、彫刻)に指定されている。
 大田道潅は永享4年(1432)に相模で生まれ、長禄元年(1457)に江戸城を築いた。「文武両道の鏡」との誉れ高く、文事では和歌に情熱を傾けてその道に深く通じ、軍事では特に戦略的な才覚に優れて、扇谷上杉氏を守りたてた。しかしその有能さが上杉家宗家の山内上杉顕定に疎まれ、主君の上杉定正によって、文明18年(1486)定正の居館である糟屋館(伊勢原市内、詳しい場所不明)で暗殺されるという悲劇の主人公となった。

 大山街道に戻り少し進むと、右側の鳥居の奥が高部屋神社である。


「高部屋神社」
 「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座で、大住郡127ヵ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前655年とも言われている。糟屋住吉の大神として、又の名を「大住大明神」と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。
 この地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在していたことが最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人・藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季」の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営したものである。
 境内右手の梵鐘は、至徳3年(1396)に河内守国宗によって造られ平英憲によって奉納されたという。神奈川県指定の重要文化財に指定されている。

 高部屋神社の境内を出て暫らく歩くと、国道246号の下糟屋交差点に着く。交差点を渡り少し歩くと庚申塔が立つ三叉路に出る。


 ここを左に、渋田川と並行して歩くと、右手奥に東海大学附属病院が見えてくる。ここで街道よりちょっとそれ、国道246号沿いのレストランで昼食を摂る。

 街道に戻りしばらく進むと、渋田川の手前で咳止地蔵に出る。

「咳止地蔵」
 渋田川に架せられた「市米(せきど)橋」のたもとにある咳止地蔵は古来から痰咳平癒の守護仏として崇められ「せきどめ地蔵」の名で広く霊験を知られた。現尊像は享保8年(1723)の再建になるもので、再々の補修がなされている。
 この地蔵に願をかける時は、泥で作った団子を供え、病気が治ったら米で作った本物のだんごを供えるのだそうである。

 市米橋を渡ったところで、矢倉沢往還と分かれ右に折れ、ヤマト運輸の前の左斜めの細い道に入りしばらく進むと、峰岸団地入口の交差点に出る。ここを直進し、団地手前の三叉路を左に入ってしばらく進むと、東名高速道にぶつかり、左手の「厚木18」のプレートが貼ってあるトンネルをくぐると、草むらの中に道標が立っている。東〆引の道標だ。
 道標には、「右 いいやまみち 左 ひなたみち 七五三引村 昭和九年」と記されている。「七五三引」は「しめひき」と読む。


 道標を過ぎ少し進むと、千石堰用水沿いの道になる。用水に沿って暫らく進むと、以前、上粕屋村の北〆引と言われていた場所に三所石橋供養塔がある。この供養塔は、千石堰用水に架かる三つの橋(台久保の石橋、石倉の石橋、川上の石橋)を供養する為に、享和2年(1802)に洞昌院住職と村人によって建てられたものである。


 石橋供養塔のところを右折し、次の三叉路を左に曲がり少し歩くと洞昌院である。


「洞昌院」
 洞昌院は、太田道灌が関東官領上杉憲実の弟 道悦和尚のために建てた寺と伝わっている。洞昌院には山門が無いがこれは次のような云われからだとか。
 上杉忠正の居館で暴漢に襲われ洞昌院まで逃げた道灌だったが、山門が閉じられていたため中に入れず落命。以来山門は設けていないのだそうである。
 道灌の遺骸は洞昌院の裏庭で荼毘に付されたといわれ、本堂の隣に「太田道灌公霊廟」、墓地の外れに「太田道灌墓所」が設けられている。
 太田道灌の墓は、玉垣をめぐらした中に宝篋印塔がたっており、両脇には松の大木の主幹があり保存のため屋根がのせてある。この大木は周囲約5?6メートルあり、折れた当時年輪を計測したら385あったことから逆算して道灌死後50年頃植えられたものと言われている。

  太田道灌の墓の北側にある三叉路を左折すると、道路の左側に七人塚がある。七人塚は、太田道灌が上杉定正居館で暴漢に襲われたとき上杉方の攻撃を一手に引き受け討ち死にした家臣7名の墓だが、明治末の開墾で破壊され一つだけ残った伴頭の墓石がここに安置されている。


 七人塚の少し先に上粕屋神社がある。

「上粕屋神社」
 上粕屋神社
は、旧称を「山王社」といい、上粕屋村の小名山王原の鎮守であった。祭神は大山咋神などを祀り、境内社として天王社と八坂社がある。
 その始まりは天平年間(729-749)までさかのぼる。大山寺開創の際、僧良弁がこの地に山王社を勧請したのが起源という。
 山王社は、上杉館の鎮守でもあった。上杉館は扇谷上杉家の本拠だった地で、神社の裏手には館の空堀跡が残っている。堀を越えたあたりに広がる台地の一帯が上杉館の跡と伝わり、相模野を一望に見渡せる地である。
 明治以降日枝神社と改められ、その後近隣の御嵩神社、熊野神社、御霊神社を合祀し、上粕屋神社と改め今日に至っている。
 参道には樹齢600年の大木が両側にそびえ、ご神体の木も立派である。

 上粕屋神社を出てしばらく進み、変則十字路を左折するとバス通りに出る。ここを右に折れたところに石倉橋バス停がある。



 今回はここまでとし、バスにて小田急線伊勢原駅まで行き解散。

第11回に続く      



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