大山道を歩く

No.2


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第2回 三軒茶屋交差点〜若林交差点〜世田谷駅前交差点〜代官屋敷〜桜小前交差点〜陸上自衛隊交差点〜用賀四丁目交差点〜用賀駅〜延命地蔵〜瀬田四丁目〜治大夫橋〜玉川三丁目〜兵庫島〜二子玉川駅前

H29年12月12日   

 10:00、三軒茶屋交差点「大山道 道標」前に、8名が集合、晴天の下、二子玉川に向け世田谷通りを歩きはじめる。
 この区間は大きく二つのルートがある。初めは上町線のルート(世田谷通り沿い)だったが、新町経由の近道(玉川通り沿い)が開かれたため、こちらが本道になったのだが、我々は上町線のルートを歩くことにした。

 三軒茶屋交差点を後に暫らく歩くと若林交差点に着く。交差点を渡り、街道から外れ左折し、少し進むと右手に駒留八幡宮がある。

「駒留八幡宮」

 徳治3年(1308)当地の領主、北条左近太郎入道成願が、八幡大神を勧請し創建された。成願は御神託により、奉斎する土地を選ぶ際、自分の乗った馬の手綱を緩め歩かせた。その馬が立ち止まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。
 その後、室町時代、世田谷城主吉良頼康が、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称し、またその母常盤を辨財天として祀ったのが、境内にある厳島神社である。 

 世田谷通りに戻り少し行った左手の細い道を入った右手に「常盤塚」がある。

「常盤塚」
 世田谷城主吉良左兵衛佐頼康の愛妾常盤(奥沢城主大平出羽守の娘)が、頼康の寵も衰えて自害したのを埋めた所である。
 常盤姫が自害したとき、姫が可愛がっていた白鷺が、このことを姫の実家である奥沢城に知らせようと飛び立ったものの、途中で矢で射抜かれてこの場所に落ちて死んでしまい、その後にさぎ草が咲くようになったという伝承がある。ちなみに、さぎ草は、世田谷区の花にもなっている。

 再び世田谷通りに戻り、暫らく進み世田谷区役所入口交差点を過ぎた先右手に大吉寺がある。その隣には圓光院がある。

「大吉寺」
 大吉寺の創建年代は不詳だが、真言宗寺院として創建、世田谷吉良氏の祈願所となっていた。小田原北条氏と共に吉良氏も滅亡、目黒祐天寺の祐天上人、その弟子祐海上人の尽力により浄土宗寺院として再興した。
 作家、寺内大吉は、大吉寺が生家であり住職も務めていた。
 境内にある江戸中期の有職故実家 伊勢貞丈の墓は、東京都指定旧跡となっている。

「圓光院」
 世田谷吉良氏の祈願所として室町末期の天正年間(1573-1591)に盛尊和尚によって創建された寺であると伝えられている。
 当時の建物には、朱塗りの山門、本堂、閻魔十王堂、庫裡等があったと言うが、数度の風禍にあって倒壊してしまった。明治32年信海大和尚が境内の大改修工事を行い今日の隆盛の基礎を築いた。

 圓光院の前、世田谷駅前交差点を左折し、その先世田谷中央病院交差点を右折する。この通りはボロ市通りと呼ばれ、ボロ市が毎年1月15・16日、12月15・16日の4日間開かれている。
 ボロ市は、小田原城主の北条氏政が、天正6年(1578)、この地に楽市を開いたのが始まりと言われている。
 明治になって正月用品や農具類の他、古着を売る店が多くなったため「ボロ市」と呼ばれるようになった。今でも骨董品や中古家具から食料品まで様々な店が並び、多くの人でごった返す。

 ボロ市通りを暫らく進むと左側に茅葺き屋根の家が見える。世田谷代官屋敷である。

「世田谷代官屋敷」
 彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれる。
 大場家の屋敷は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)にあったが、天正の初め(1575年)ごろに現在の場所に移された。現在の建物はその後、7代の盛政が元文2年(1737)に立て直したものである。
 現在の敷地内には、表門と主屋のほかに、お白洲の玉砂利が白洲跡として残されいる。また世田谷区の郷土資料館が併設されいる。資料館入口の前には大山街道の道標がある。

 代官屋敷から暫らく歩くと世田谷通りと交差し、道路を渡り、その先を左折、桜小前交差点で再び世田谷通りを渡り少し進むと、小さな三叉路の角に石碑があり、ここにあった道標を先程の郷土資料館に移したことが記されている。
 この先の交差点を直進し暫らく進むと、小さな交差点の左角の大山道児童遊園に、旅人が一休みしている感じの大山街道旅人の像がある。

 旅人の像の前を通り、弦巻四丁目、陸上自衛隊交差点を通り過ぎ暫らく進むと、左側より大山街道新道と合流する、用賀追分に出る。用賀追分を過ぎ、用賀中町通りを横切った先右手奥に、真福寺の赤い山門が見える。

「真福寺」
 用賀村を開拓した飯田図書(花巌院法誉善慶居士・天正6年1578年没)が開基、法印宗円和尚(天正6年1578年寂)が開山となり創建したという。古くから山門が赤いため「赤門寺」とも呼ばれている。
 江戸時代と明治時代、農民は休息日にここで博打を行い、真福寺は、しょば代として出来高の幾分かを受け取り、その寺銭で寺を経営したというユニークな寺でもあった。

 真福寺の前を過ぎるとすぐ用賀駅前に出る。用賀という地名は、鎌倉時代初期、勢田(瀬田)郷に瑜伽(ヨーガ)の修験道場がつくられたことから付いたらしい。
 用賀宿は大山街道旧道(上町線)と新道(新町線)が合流する場所にあって、幕末に旅籠、油屋、蕎麦・うどん屋、万屋などがあった。玉川電車が開通した大正時代になると、用賀駅付近はさらに発展し、醤油造り屋、酒屋、雑貨屋、茶店などの他に、製糸工場なども作られ、絹織物の仲買人が集まり賑わったという。

 用賀駅を過ぎると、やがて、田中橋があった首都高速道路の高架をくぐり、玉川台二丁目の延命地蔵の二又に出る。
 延命地蔵は、安永6年(1777)、旧用賀村の女念仏講中の人々が建てたもので、前面には「法界万霊」という文字が刻まれている。この道を通る人の安全を願い、無縁仏の供養をしたという。

 延命地蔵の二又で右側の道、大山街道の慈眼寺ルートに入る。左側の道は行善寺ルートである。環八道路を渡り、少し歩くと右手に大空閣寺がある。そこから少し歩くと突き当りに瀬田教会がある。右折すると坂の上に慈眼寺が見えてくる。

「慈眼寺」
 徳治元年(1306年)、法印定音が小さな堂を建立して開創したのに始まる。はじめは修験所であったが、天文2年(1533年)、郷士の長崎四郎左衛門が国分寺崖線の上の現在地に堂宇を移し、大日如来を本尊として安置して慈眼寺と称した。
 以後、長崎家の祈願所であり菩提寺でもあった。また、神仏分離が行われる以前は南隣の御嶽神社(現在の瀬田玉川神社)の別当寺であった。
 現在の本堂は昭和50年(1975年)に再建されたもの。近年建て直された真新しい仁王門が美しい。

 参道入り口の脇に笠付庚申塔が立っている。この庚申塔は、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿(さんえん)の上に三つ目、腕六本の青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれている典型的な江戸中期のもので、元禄10年(1697年)2月20日造と刻まれている。

 慈眼寺辺りから急な下り坂になる。すぐ右手の石段を上がると瀬田玉川神社がある。瀬田玉川神社は、大山街道の急な崖の上にある神社で、古墳の上に建っている。寛永年間(1624〜44)に創建された御嶽神社があったところだ。明治41年(1908)、旧瀬田村の八幡神社、天祖神社、熊野神社などを合祀して瀬田玉川神社になった。

 そこから多摩川段丘の急坂を一気に下ると、治大夫橋に着く。下を流れる次太夫掘は、六郷用水とも呼ばれたが、今は丸子川になっている。1945年に廃止され、大半は埋め戻されたり雨水の下水道になったが、そうならなかったこの辺りから大田区田園調布までが丸子川として残っている。

 治大夫橋を渡り、また暫らく進み、多摩堤通りに出て左に折れ、野川に架かる橋を渡ると、兵庫島公園に着く。
 兵庫島公園は、国道旧246号(大山街道)二子橋と、国道246号(東京・横浜バイパス)新二子橋の間の多摩川河川敷に位置し、多摩川と野川の合流部に位置する「兵庫島」を基に作られた公園である。
 国分寺崖線の豊かな緑を望み、兵庫池や開放的な芝生の広場、兵庫池にそそぎこむ流れ等の散策が楽しめる。
 今日は天気がよく遠くに富士山が望めた。

  兵庫島公園から二子玉川駅前に出る。今回はここまででとする。

第3回に続く      



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