大山道を歩く

No.3


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第3回 二子玉川駅前〜二子の渡し跡〜二子橋〜二子神社〜光明寺〜高津図書館〜大山街道ふるさと館〜大石橋〜栄橋〜JR南武線大山街道踏切〜ねもじり坂下〜子育地蔵〜梶が谷駅入口三叉路(〜梶が谷駅〜梶が谷駅入口三叉路)〜梶が谷交差点〜宮崎団地前交差点〜庚申坂上〜宮崎第二公園〜花園橋北交差点〜八幡坂上〜宮前平駅前

H30年2月13日   

 10:00、二子玉川駅前に前に、9名が集合、晴天の下スタート。まずは「二子の渡し」の東京側の跡へ。多摩堤通りを少し下り堤防沿いの道に出たところの玉川福祉作業所の前に「二子の渡し跡」の石碑がある。

 二子玉川駅の方に戻り、二子橋を渡り、神奈川県に入る。二子橋交差点を渡り右斜めの道を入った先の信号のある交差点の角に「旧大山街道二子の渡し場 入口」という標柱が立っている。ここを右に折れた先の河原が渡し場のあったところ。そしてこの堤防沿いに二子神社岡本かの子文学碑がある。

「二子の渡し」
 二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。始まりははっきりしていないが、元禄年間(1688〜1703年)からあったらしい。江戸時代には大山詣りの参拝客などで賑わい、また相模地方の産物を江戸に送る流通経路としても利用された。
 二子の渡しは街道筋であるため、それら農民に加えて行商人や、特に江戸中期以降盛んになった大山詣での人々などにとっても大切な足として機能していた。
 一方、かつて暴れ川とも呼ばれた多摩川の水かさによっては、人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったという。そのため、渡し場の周りには茶屋や食事処、宿屋などが集まり、二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展した。「二子新地」はこの当時の賑わいを今に残す名といえる。

 大正12年(1923)の関東大震災で東京からの避難民が大山街道を通ったことがきっかけとなり、二子橋の架設運動が活発化し、大正14年(1925)に二子橋が完成した。そして同年、二子の渡しは廃止された。
 二子という地名の由来は、旧坂戸村(現高津区坂戸)の近くに丸いお坊塚という二つの塚があったためとか、二子の渡しを始めた親孝行の双子の話からついたなどと伝えられている。また、二子橋を挟んで世田谷側と瓜二つの「双子」集落をつくっているからとの説もある。

「二子橋」
 多摩川及び並行する支流の野川に架かる片側1車線の道路橋。東京都側(東詰)は橋を渡ってすぐの場所にある二子玉川交差点で多摩堤通り・駒沢通りと接続する。神奈川県側(西詰)は多摩沿線道路・大山街道(溝口大通りとも)に接続する。
 関東大震災がきっかけとなり、大正14年(1923)7月に架橋され、昭和52年(1977)に大改修された。

「二子神社」
 もと神明社と称し、創建は寛永18年(1641)といわれ、旧二子村の村社であった。明治時代に大六天と稲荷を合祀し、村名をとって二子神社と改称した。境内には出世稲荷や、念仏講の供養塔がある。

「岡本かの子文学碑」
 二子村の旧家・大貫家に生まれ、多摩川を愛した岡本かの子のために、多摩川を眺むこの地に建てられた抽象彫刻の文学碑。「誇り」と題する大型の彫刻は、かの子の子息、岡本太郎の作で、築山風台座は建築家、丹下健三が設計し、昭和37年(1962)秋に完成した。その横には、亀井勝一郎が岡本かの子について書いた文章を川端康成の書によって記した碑も設置されている。

 再び大山街道に戻り、旧二子宿の商店街を溝口方面に向かって歩くと。右手に光明寺がある。

「光明寺」
 慶長6年(1601)の創建といわれる。寛文9年(1699)幕府の命により公用旅行者用の伝馬人足の常備と宿泊施設を目的として南二子から現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。明治7年(1874)から明治9年(1876)まで「二子学舎」の名称で学校として使われた。
 境内には、岡本かの子の兄で、島崎藤村の門下生として、谷崎潤一郎和辻哲郎らとともに同人雑誌「新思想」を創刊した大貫雪之助の墓がある。

 ここから暫らく歩くと右手にある高津図書館に着く。広い構内には「国木田独歩碑がある。

「国木田独歩碑」
 碑文は島崎藤村の筆になるものである。独歩の小節「忘れえぬ人々」の舞台となった溝の口宿の旅籠亀屋にあったものが、廃業により当地に移された。

 図書館から一軒おいた隣に古い大きな家の「田中屋呉服店」がある。この付近は、以前、六軒町と呼ばれていた。家が六件あったことから、この名が付いたといわれている。

 府中街道との交差点の角には、開業が江戸時代末期の嘉永年間(1848〜54)の老舗、田中屋秤店があり、その先には、灰吹屋の古い建物が現れる。

「田中屋呉服店」
 蔵造りの店は、太い欅の柱と梁が多く使用されているが、通し柱や梁を組み立てるのに釘を使用せず鑿を入れて組み込んでいる。箪笥・寝具・嫁入り道具などを売っていた。
「灰吹屋」
 江戸時代の明和年間(1764〜72)に創業された老舗で、昭和35年(1960)までは蔵が店になっており、畳の上で薬を売っていた。灰吹屋の薬はよく効くというのと、明治20年頃まで大山街道に薬屋が少なかったこともあり、繁盛したそうである。

 灰吹屋から大山街道を挟んで反対側には「大山小径」と名付けられた広場のような並木道がある。

「大山小径」
 タイル貼りの通路には、一番の「赤坂御門」をはじめ、 左右交互に15枚の絵タイルが埋め込められ、一五番の「粕屋(大山不動へ二里)」までの絵タイルを踏み歩くと、18枚の絵タイルを組み込んだ大山寺雨降神社真景に到着する。 正面は大山全景、左下に江ノ島、右上に雲の富士山があり、コンパクトに大山詣りの疑似体験ができるというものである。

 この先、旧府中街道との交差点を越えるとすぐ右手に「大山街道ふるさと館」がある。

「大山街道ふるさと館」
 大山街道に係る歴史、民俗等に関する資料及び郷土にゆかりのある人の美術、文学等の作品等の展示を行うとともに、市民に学習の場を提供し、市民の文化の発展に寄与することを目的にする博物館である。1992年8月開館。旧高津町役場跡地に建設された。
 館の入口には、伊豆石で作られた高幡不動尊道の道標が展示され、その左側面には「西 大山道 文政十二 己丑年 三月吉日」と刻まれている。二子村の石工、小俣松五郎の作と考えられている。

 この少し先が、二ヶ領用水に架かる大石橋だ。

「大石橋」と「二ヶ領用水(にかりょうようすい)」
 多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から川崎市幸区までを流れる、全長約32km(宿河原の支流を含む)の神奈川県下で最も古い人工用水路である。関ヶ原の戦いの3年前(慶長2年(1597))に測量が始まり、14年の歳月をかけ天正18年(1611)に完成した。
 二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する。農業用水として多摩川から水を引いて造られ、かつては近隣の農業を支えた二ヶ領用水だが、現在の沿川は宅地化が進んでおり、工業用水などに用いられるとともに、近隣住民の憩いの場としても親しまれている。

 大石橋を渡って溝口駅入口の十字路を越えるとすぐ右手に溝口神社がある。

「溝口神社」
 創建年代は不明であるが、江戸時代神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称した。 創建時より、毘沙門天、弁財天の男女ニ神を神体として安置をしてきたが、明治初年の神仏分離令に従って神像を裏の宗隆寺に移し、溝口村、高津村、下宿、中宿、片町、六間町、六番組を統合し伊勢皇神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と名称を改めた。
 境内には、御神木の樹齢300年以上といわれる「親楠」と樹齢500年以上といわれる「長寿けやき」がある。

 そして、溝口神社の先、右手奥に宗隆寺がある。

「宗隆寺」
 創建年代等は不詳ながら、天台宗寺院で本立寺と号していたという。当地の地頭で池上本門寺の檀越でもあった階方新左衛門宗隆と本立寺住職興林僧都とに夢告があったことから、明応5年(1496)池上本門寺第八世貫主日調の師弟となり、日蓮宗に改め、興林僧都と階方新左衛門宗隆にちなみ興林山宗隆寺と改号したという。
 陶芸家で第一回人間国宝・文化勲章受章者の濱田庄司の墓がある。

 大山街道まで戻り、少し歩くと、栄橋交差点の十字路に着く。十字路を渡った左側に栄橋の親柱が置かれている。その脇には大山街道の案内看板が立っている。

「栄橋」
 栄橋
平瀬川本流六ヶ村堀が交差していたところで、溝口村と下作延村が接しており、境橋と呼ばれていたが、境が、音が似て縁起が良い栄に変えられたものだという。

 栄橋交差点を過ぎ少し歩き、南武線の踏切を越え、その先の片町十字路の斜め向かいに小さな祠、片町の庚申塔がある。この四つ辻は溝口・久本・下作延の三村の境で、村に疫病が入らないようにと立てられたものである。

 片町交差点を渡り、暫らく進むと「ねもじり坂」の案内板が立っており、ここを左に折れ、ねもじり坂の急な坂道を進む。
 「ねもじり」の由来は明らかでない。昔は今より急坂で、東京へ野菜を運び,帰りには下肥を積んでくる牛車・荷車などにっとっては、別名「はらへり坂」とも呼ばれた難所であった。


 坂を上りきったところの三叉路の角に「笹の原子育て地蔵」が祀られている。昔、子供の授からない夫婦が西国の百霊場を巡拝して、子供を授かったのでお礼に地蔵尊を建立したものと言われている。


 この先、の信号のある三叉路を左折すると田園都市線の梶が谷駅に出る。一旦大山街道から外れ、梶が谷駅前で昼食を摂る。

 再び大山街道に戻り、少し進むと左側に、道標庚申塔がある。道標の側面には「大山道」と刻まれている。


 更に暫らく歩くと国道246号線にぶつかり、梶が谷交差点の横断歩道橋を渡り、246号線で分断された大山街道に戻る。
 暫らく歩き、宮崎団地前交差点を直進し、庚申坂とという名が付けられている坂道を下りきると、今度はゆるい上り坂で、宮崎第二公園のところに着く。
 昔の大山街道は、現在のルートより北側を通っていたが、今では住宅開発のため、その痕跡はない。

 宮崎第二公園のところの広い道路を横切り、緩い坂道を進むと八幡坂のてっぺんだ。道路に沿って八幡坂を下ると、東急田園都市線を見下ろす側壁の上に出る。ここを右折し更に坂を下ると宮前平の駅前に出る。この正面に八幡神社がある。
 石段の下には、小台庚申堂があり、中には正徳4年(1714)銘の庚申塔がある。

「八幡神社」
 創建年代は不詳ながら、古くより馬絹村と土橋村の共有地に鎮座していたといい、明治43年馬絹神社に合祀されたものの、その後分宮として奉斎されたという。
 長い石段の上に社殿があり、村の境界がこの石段の真ん中になったので、村の鎮守の神社(八幡神社小台稲荷神社)が並んで一つの境内にあったのである。

 今日はここ宮前平駅前までで終わりとし、解散。

第4回に続く      



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