大山道を歩く

No.4


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第4回 宮前平駅前〜高山〜鷺沼交番前交差点〜八幡坂下〜鷺沼二丁目交差点〜おなかま保育園〜有馬さくら公園〜川崎・横浜市境〜うとう坂上〜血流れ坂下〜鍛冶橋〜真福寺〜荏田交差点〜江田駅前

H30年3月15日   

 10:30、東急田園都市線の宮前平駅前に、8名が集合、今日も晴天で、暖かくなりそうだ。本日の目標地・江田駅に向け歩きはじめる。

 宮前平駅前から、尻手黒川道路を渡り、レンタカー営業所に沿って右に進み、すぐ左折し、田園都市線のガードをくぐると、竹やぶに囲まれた民家が見える。ここから暫らく上り坂が続く。小台坂だ。

 やがて小台公園が見えてくる。公園の角を右折しすぐ左折すると坂は緩やかになり、ほとんど平坦になる。このあたりは高山と呼ばれ、付近一帯で最も高い。その最高点には国土地理院の四等三角点が置かれている。小台自治会の小屋裏にある小さな空き地に三角点標石がある。標高は74.66mだ。

 高山の最高点から緩い下り坂となり、旧国道246号線に合流し暫らく進むと、鷺沼交番前交差点に出る。ここで左手の坂を下ってしまい、途中でミスコースに気付き、鷺沼交番前交差点まで戻り、左折し、みずほ銀行の角を左に折れるとすぐ下り坂になる。この坂は八幡坂という。

 「鷺沼」という地名は、「サギが飛来する沼」から付けられたと言われていて、鷺沼谷は湿潤なな土地で、小さな沼がいくつかあったようである。
 八幡坂を下ると国道246号線にぶつかり、右折するとすぐ右手に阿弥陀堂がある。

「阿弥陀堂」
 石仏が二体あり、地蔵尊の方には「元禄元年(1688)十二月」の文字が刻まれている。元禄時代、付近で悪病が流行し、多くの幼い子供が亡くなった。その供養と子育てを願い、植村家の妻が中心となって建立したものである。

 阿弥陀堂の前を過ぎ、鷺沼二丁目交差点を左折すると緩い上り坂となる。すぐ右側に馬頭観音があったというが、見当たらない。取り壊されてしまったのか・・・
 暫らく歩き、おなかま保育園の角を右折すると右手に川崎考古学研究所がある。

「川崎考古学研究所」
 川崎市域が大規模開発されるなかで失われてゆく遺跡の保護を目的として、宮前区の持田春吉氏が昭和54年(1979)に設立した研究所。発掘した遺跡は市内の全域におよび、研究所内には、夥しい様々な土器、鏃や斧などの石器、勾玉などの各種の首飾りなどが発掘場所毎に整理されて展示され、所蔵した考古資料は2万点を超えていた。
 平成23年(2011)秋に川崎考古学研究所は閉所され、その32年の活動の歴史に幕を閉じ、これに伴い同研究所の所蔵資料が、一括して川崎市市民ミュージアムに寄贈されている。

 坂を上りきった十字路の右側にあるのが有馬さくら公園である。十字路を左折し、突き当りを右折、最初の道を左折すると緩い坂になり、前方が開けてくる。一本目の道が川崎と横浜の市境である。

 細い道の両側には、皆川園が育てている素晴らしい植木が並んでいる。暫らく進むと急な下り坂になる。うとう坂である。続いて血流れ坂を下る。
 血流れ坂は、罪人を処刑したことから付けられたといわれているが、実際は、このあたりが鉄分が多く含んだ土地で、雨が降った時にその鉄分が融けて赤茶けた水が流れることによるもので、血ではないのである。

 今日のコースはほんとうに坂が多い。血流れ坂を下りきると広い道路「日吉元石川線」に出る。道路を渡り、血流れ坂の延長上にある斜めに入った道路を進む。
 
 暫らく歩く気横浜市営地下鉄のガードをくぐり、更に進むと左手にこんもりと茂った木立が見えてくる。道路端に霊泉・不動滝が湧水している。

「不動滝(滝不動尊)」
 ここは雨乞い、喘息、風邪に霊験があるそうで、水をくむ人が多い。

 不動滝のすぐ隣の石段を上ると、老馬鍛冶山不動堂がある。

「老馬鍛冶山不動堂」
 不動尊の堂守をしている大久保太市さんによると、江戸時代末期、諦念法師が大棚村を訪れ、大久保家に一夜の宿を求め、そこの婿養子となった。背負ってきた不動明王を牛久保の長徳寺に預けたが行方不明になり、再び新潟まで不動明王をを求めに行き、家の近くに堂宇を建てたのだという。
 堂宇の下には、諦念法師作とされる石の不動尊がある。

 不動滝から少し進むと早渕川の川岸に出て左折、鍛冶橋を渡り左折すると右側にマンションがある。以前、ここに荏田宿の目標となる大きな一里榎があった。その向かい側に小さなお堂があり、中に庚申塔が祀られている。

「庚申塔」
 この庚申塔は、その昔、寛政五年(1793)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達によって建てられたもので、当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いの為六十日ごとの庚申の日に講中の人(女)が集まって眠らずに祈願し、一夜を過ごす風習があったそうである。

 庚申塔から大山街道は布川に沿って右に曲がり、荏田宿に入る。

「荏田宿」
 荏田宿は、鎌倉街道矢倉沢往還が通り、交通の要衝であったことから鎌倉時代に荏田城が築かれ、城下集落として発展した。
 江戸時代初期に宿駅に指定され、文久3年(1863)には三軒の旅籠と三十軒近い商店が軒を並べていたという。江戸から七里という距離であったことから、江戸を早朝に発った旅人の最初の宿泊地であった。

 街道から少し離れるが、真福寺に寄ってみる。JA横浜荏田の前を通り、次の十字路を左折し布川橋を渡り、真福寺下交差点を左折して一つ目の角を右に入ると真福寺の山門が見える。

「真福寺」
 真福寺
は、ここより北方3.4q離れた処にあったが、老朽化により当時観音堂であったこの地に大正10年(1921)真福寺釈迦堂を移し、それぞれの本尊を客仏として安置した。
 本尊の木造千手観音立像は平安時代の作で、県重文に指定され、客仏の木造釈迦如来立像は鎌倉時代に作で国重文に指定されている。

 荏田宿に戻り、仲宿に入ると民家の庭に石灯籠が立っている。これは荏田宿の秋葉常夜灯で、文政4年(1821)の大火後の文久元(1861)年に、火難除けのため秋葉神社を勧請して秋葉講の案内宿に建てられたものである。

 高さ230センチメートルの大きなもので燈の中台には「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれている。
 建立にあたっては荏田宿の世話人衆をはじめとして神奈川宿、市ケ尾村、川崎の諏訪河原村などの有志の寄付をあおいでいる。

 国道246号線の荏田交差点を越えると上宿に入り、一つ目の角を左折する。この四つ角には、かつて高札場があった。 街道を進むと、右側にこんもりと茂った台地が見えてくる。この山は荏田城址である。

「荏田城址」
 荏田城の歴史についてはほとんど不明である。『新編武蔵国風土記稿』では、源義経の配下に荏田源三という名がみられることから、この荏田氏の居城であったと推測しているが確証はない。
 後北条氏進出後の『小田原衆所領役帳』には、会禰采女助の所領として「小机荏田」が挙げられている。ここから、『日本城郭大系』では荏田城小机城の支城であったと考察している。
 
 麓で鎌倉古道大山街道が交差するため、交通の要衝を押さえる目的で築かれたものと考えられる。本郭・副郭の2郭からなる小規模な城だが、深い堀や土塁が良好に残されている。
 現在、城のある山は麓の民家の私有地で、副郭外側の堀は堀底道となっていて歩けるが、それ以外は私有地につき立入禁となっている。

 荏田城址を右手に見ながら進み、国道246号線と合流して少し進み、右斜めの細い道に入るとすぐ右側の草むらの中に庚申供養塔がある。寛保年間(1741〜44)に造られたもので、フェンスの中にあり見逃しやすい。

 その前を直進し東名高速道路の下をくぐり、荏田北三丁目交差点を越えると右側に地蔵堂がある。この地蔵堂は江戸中期に造られたもので、三体の地蔵尊が祀られている。


 東急田園都市線のガードをくぐり、左折すると江田駅に到着だ。今回はここまでとし、駅前のレストランで昼食を摂った後解散。


第5回に続く      



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