大山道を歩く

No.5


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第5回 江田駅前〜市ヶ尾小学校南側交差点〜猿田坂下〜総合庁舎入口交差点〜医薬神社〜藤が丘地区センター〜消防藤が丘出張所交差点〜再勝橋〜青葉台交差点〜コジマ青葉台店浦三叉路〜恩田大橋〜片町交差点〜片町地蔵堂〜長津田駅南口交差点〜長津田駅南口

H30年4月24日   

 10:00、東急田園都市線江田駅前に、8名が集合、青葉台駅に向け歩きはじめる。

 江田駅西口から田園都市線の下を斜めに抜けるトンネルをくぐり、国道246号線沿いに少し歩き、ガードを再びくぐり、線路に沿った緩い坂を進む。


 二又に分かれている右手の道に入り、長谷公園の脇を通って歩いて行く。この辺りの住宅は玄関までに長い階段を上らなければならなく、大変だと思う。その階段には綺麗な鉢花が飾られている。


 少し行くと市ヶ尾小学校南側交差点に着く。二又を右折していくと右手に市ヶ尾竹下地蔵堂がある。

「市ヶ尾竹下地蔵堂」
 江戸中期に建てられた真宗の寺で、地蔵堂は千日の托鉢によって建立されたため、千日堂ともいわれる。毎年11月30日には、「お十夜講」が行われ、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら念仏を唱える双盤念仏が伝わっている。
 竹下地蔵堂の石段下に石塔群があり、5体2列に並んで10体(基)の地蔵と庚申塔が並んでいる。後列には、右端に享保10年(1725)銘の庚申塔、日田芹から二番目に慶応3年(1867)銘の石仏がある。また、前列の左端の庚申塔には不動明王像が彫られ、左「大山みち」、右「江戸みち」とあり道標にもなっている。

 地蔵堂を後にして少し行くと左側に下る緩い坂道がある。猿田坂というが、猿は"去る"に通じるというので、嫁入り行列はこの坂を通らなかったという。以前、坂の右側には道標を兼ねた庚申塔があった。ここは大山街道の面影を残している部分だ。

 猿田坂を下ると日野往還(江戸時代頃から神奈川より柿生村までの絹の道)と大山道が交差する十字路に着く。左側に古い二階建ての建物が佇んでいる。これは明治15年(1882)に建てられた綿屋旅籠で、今は民家で営業はしていないが、建物は昔の旅籠そのままで、出梁(だしばり)造りと呼ばれる二階が張り出した構造はなんとも風情がある。


 十字路を越え、広い通りに出て右折、総合庁舎入口交差点を左に折れ谷本川(下流では鶴見川)に架かる川間橋(別名三文橋、江戸時代末期、川間吉兵衛という人物が私費を投じて橋を架け、利用者から渡り賃三文を取ったかららしい)を渡り少し進むと、柿の木台交差点の手前、二又の分岐点に着く。大難の辻と呼ばれていた場所だ。昔は急坂で、崖が崩れると、この辺りまで土砂が押し寄せたためについた名前である。

 右手の細い道を行き、十字路を越えた先右手角の民家の入り口に一里榎がある。

「柿の木台の一里榎」
 柿の木台には江戸時代に一里毎に松や榎を植えて道標とした「榎」が残っている。樹齢は600年を超えた榎で、幹には空洞があるが、明治3年(1870)の火災に遭った跡といわれている。横浜市の銘木指定となっている。

 さらに進み、突き当りを左に、そしてすぐ右に折れ坂道を上ると右手に医薬神社がある。

「医薬神社」
 天正年間(1573-1592)に創建した医王山薬王院東光寺内に境内社として創祀したという。明治初年の神仏分離令に際して、寺を廃して医薬神社としたもの。真言宗関東三ヶ寺の一であった医王山薬師院東光寺の、医王山の医と薬師院の薬をとって祀られてきた。
 拝殿の右側の後方にある木祠には、左から五輪塔の残欠、台石に大山道の文字のある大師座像、文字地神塔、明和4年(1767)銘らしき双体道祖神が右端にある。

 医薬神社前交差点を左折し突き当りを右に折れ、ゴルフ場を左に見ながら暫らく進み、緩い坂のピークを越え、左側に藤が丘地区センターを見ながら坂を下るとT字路に出る。ここを左折しすぐの消防藤が丘出張所交差点を右折する。この角にファミレスがあり、ここで昼食を摂る。

 暫らく単調な坂道を進み、ヤマト運輸青葉支店前で右にカーブし次の十字路を左折、ヤマダ電機の横を進み、国道246号を跨ぐ再勝橋を渡る。
 次の交差点を右折し坂道を下ると広い道路と交差する。この十字路を右折し、国道246号の陸橋をくぐると、間もなく青葉台交差点である。

 当初の予定ではここから青葉台駅へ行き解散の予定だったが、時間が早いので、長津田まで行くことにする。

 青葉台交差点を駅とは反対方向に左折し、国道246号の手前を右折し、榎田橋を渡る。坂道を進みT字路を右折し、次の十字路を左折すると坂は急になり、右にカーブを描く。
 左側に大きな日本料理店「青柿」の塀が続く。その先の十字路を左折し、右に恩田配水池の建物を見ながら進み、信号のある十字路を左折、次の道を右に入る。

 暫らく進み、二又の分岐点を墓地に沿って左折すると、墓地に上がる石段がある。墓地の中に、北条氏ゆかりの粕谷家の宝篋印塔五輪塔がある。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに、石造の遺品が多い。ここの宝篋印塔は、もともと寿光院(廃寺になっている)の墓地にあったもので、元亀4年(1573)の銘が見える。
 墓地を出て左に進むと、駐車場と国道246号の角に、大山街道の道標を兼ねた道祖神がある。風化して読みにくいが「江戸へ」と刻まれている。


 昔の大山街道はここからそのまま国道246号を突っ切って直進し、右に大きく曲がり長津田方面に向かっていたが、その道はないので、トンネルの手前を右折し、国道246号の歩道に入る。恩田大橋を渡り暫らく歩き、片町交差点を過ぎると右に入る道がありこれが大山街道だ。

 JR横浜線のガードを抜けるると坂道になり、ほとんど上りきった左側に片町地蔵堂がある。

「片町地蔵堂」
 地蔵堂には三体の地蔵が祀られていて、別名「道しるべ地蔵」と呼ばれる。お地蔵さんの台石には「向テ右かな川 左みぞノ口」、他の一体には「南つる間 東江戸道」と記されている。

 地蔵堂から少し進むと左手に、長津田宿の「常夜灯と石塔群」の広場がある。そこには、下宿常夜灯、地神塔、庚申塔、地蔵尊、弁財天などが並んでいる。常夜灯はかなり修復されているが、文化14年(1817)の建立だとか。

「長津田宿」
 荏田宿
と共に江戸時代初期に宿駅に指定された長津田宿は、江戸からの距離が9里(約36キロメートル)で、7里(約28キロメートル)の荏田宿とともに、江戸から最初の宿泊地とされることが多かったという。
 戦国時代から江戸末期まで旗本岡野家が知行しており、江戸時代末ごろには旅籠や商店など50軒ほどが軒を並べていたという。 しかし昭和28年(1953) の大火と平成14年から始まった道路整備で往時の面影はすっかり失われてしまった。

 暫らく歩くと、長津田駅南口交差点に着く。大山街道から少し外れるが。ここを左折し少し坂を下った左手に大林寺があり寄ってみる。

「大林寺」
 大林寺は元亀元年(1570)、小田原北条氏の家臣であった岡野越中守融成によって開山、その嫡子房恒によって天正19年(1591)に菩提寺として大林寺を建立したと伝えられている。
 本堂左手の「鐘楼」は長津田十景の一つ「大林晩鐘」で、夕靄(ゆうもや)に包まれた鐘の音を表現しているという。
 また、境内には初代引田天功の墓がある。

 大林寺の近く、コメダ珈琲店の脇の路地を入った、マンション入口に道路に背を向けてひっそりと建っているお七稲荷
 岡野家第3代房勝は八百屋お七事件を担当した盗賊追捕役の中山勘解由と同職であったことから、岡野家の不幸はお七の祟りではないかと、お七稲荷を祀って霊を慰めたのだとか。(右の写真は同行したAさんが後日撮影してきたもの)
 



 お七稲荷は、分かりにくいところにあるようで、見つけることができず、長津田駅まで歩き解散。

第6回に続く      



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