大山道を歩く

No.6


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第6回 長津田駅前〜大石神社下〜長津田交差点〜すずかけ台駅〜町田市辻交差点〜圓成寺〜観音寺〜山王神社〜鶴間駅前

H30年5月22日   

 10:30、長津田駅前に、8名が集合、晴天の下スタート。駅南口を出て、長津田駅南口入口交差点を右折し少し進むと、右に入る細い坂道があり、そちらに進む。これは大石神社の女坂で、途中左側に石灯籠がある。上宿常夜灯地神塔だ。

「上宿常夜灯と地神塔」
 この常夜灯は、天保14年(1843)に長津田宿の秋葉講中が建立したもので、初め、女坂の麓の小高いところにあったが、大山街道が拡幅された際に現在地に移された。
 隣に並ぶ地神塔は常夜燈の前年に建てられた。地神塔は春分・秋分に近い戊(つちのえ)の日に、作物の神様である地神様を祀り、豊作を祈願したものである。

 坂道を上りきったところに社がある。大石神社である。

「大石神社」
 大石神社の創建年代等は不詳であるが、元長津田村大石権現社と称し、大きな石を神体として在原業平を祀り、武蔵国と相模国の国境に鎮座していたという。その後村民の争いの結果当地に鎮座、大正12年には五月神明社、稲荷社を合祀したという。
 神社の境内からは縄文土器や石器も出土しており、1万年以上前から長津田に人が住んでいたことを示している。

 大石神社の先の長津田小学校入口交差点を右に曲がり、その先、二又に分岐している左の砂利道が大山街道だ。道の右側は小学校の石壁、左側は竹を主とした雑木林で、旧街道の面影を残している。


 旧街道を歩き、信号のある十字路に出て右折する。森村学園の下を通り、左側高台の横浜田園都市病院を見ながら暫らく進むと国道246号の長津田交差点に出る。

 国道246号をを歩き、左手に広がる「フィールドアスレチックつくし野」を通り過ぎ、つくし野交差点の歩道橋を渡り、更に横断歩道を渡ってすぐ斜めに入る坂道を上っていく。
 上りきると両側は切り立った崖になっていて、馬の背中のように見えることから「馬の背」と呼ばれている。今日は天気も良いので右手奥に丹沢・大山を見ることができた。
 再び国道246号に合流し進み、田園都市線すずかけ台駅を右手下に見ながら歩いて行くと左手に東京工業大学への連絡通路があり、「ノーベル賞メダル公開中」の看板が出ている。この様な機会はまずないので、行ってみることに。

 公開は12時からで、まだ時間があるので、先に学食で昼食を摂ることにする。昼食後、構内の「博物館すずかけ台分館」にて公開されている、生理学・医学賞の大隈 良典栄誉教授と化学賞の白川 英樹博士のノーベル賞メダルを見る。このメダルはノーベル財団が限定3個で制作した公式レプリカの1つである。


 東京工業大学を後にし、暫らく国道246号を歩く。「ふか草」という旅館の看板の先を左折し、すぐの十字路を左折すると小さな祠がある。
 辻地蔵尊が祀られている地蔵堂で、念仏供養や所願成就を願って、元文5年(1740)に建てられたものである。その隣には道祖神が立てられている。


 再び国道246号に戻り暫らく進み、長津田辻バス停を左斜めに入り、東名入口交差点で国道16号の大和バイパスと交差する。
 ここでちょっと寄り道。国道246号に沿って歩き、成城石井セントラルキッチンの先を右手前に折れ少し進んだ右手に一里塚がある。

 一里塚は通称「大塚」と呼ばれている高さ10メートルほどの丘で、塚の頂には御嶽神社がある。明治中期に火難・盗難除けを祈願して作られたものである。
 この丘は、旧大山街道と町田街道の交差点近くにあるが、その位置から町田街道の一里塚と考えられている。


 大山街道の東名入口交差点まで戻り、大山街道を暫らく進むと、大ヶ谷戸バス停がある交差点の角に庚申塔が立っている。

「大ヶ谷(おおがやと)庚申塔」
 この庚申塔の正面には「つるま」と刻まれ、その上にはしめ縄が張られている。左右には石燈籠が一基づつ置かれている。
 庚申塔の後ろには高さ1mほどの供養塚があった。天明の大飢饉のときに、江戸から来た難民の犠牲者を村人が供養したといわれている。
 往時は、この辺りに小規模の大ヶ谷宿があり、農家が余業として宿を営んでいた。

 大ヶ谷庚申塔の少し先左手に日枝神社がある。

「日枝神社」
 日枝神社は、かって、井上惣太郎家の産土神であった。惣太郎家の祖・俗称下の紺屋全盛の時代、鬼門除けに勧請したものと伝えられる。明治の地租改正の時国有となった。
 昭和46年鶴間熊野神社新築の折に熊野神社内殿をもらい受け、日枝神社の内宮殿として安置した。

 そして、日枝神社の少し先右手には圓成寺がある。

「圓成寺」
 圓成寺の創建は天文7年(1538)、北條氏綱に仕えていた当地の領主山中修理亮が出家して空存となり、鶴間に山王山・紫王院圓成寺(浄土真宗)を開創と伝えられている。
 本尊は弥陀如来立像である。堂内に安置されている室町後期に作られた全身彩色を施された寄木造「聖徳太子立像」は町田市指定有形文化財である。

 大山街道を暫らく進むと、国道246号の五貫目交差点に出る。ここの左側、倉庫が並んでいる前の公園のような歩道の片隅に、五貫目道祖神が立っている。

「五貫目道祖神」
 五貫目道祖神は、徳川中期に旧青山街道(旧国道246号)の現所在地より約300m西方境川鶴瀬橋手前に祀られ、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役を果たした道祖神である。
 現在の道祖神は徳川後期安政3年(1856)に作られたもので、二代目道祖神と伝えられている。青山街道は別名大山街道と呼ばれ、五貫目地域住民も明治時代より平成の今迄、毎年1月14日道祖神地先にて1年の無病息災並びに方策を念じて、佐義長別名ダンゴ焼きの行事を実施している。

 大山街道は246号で分断されているので、この先の目黒交差点まで歩き、245号を越え、少し戻り、鶴瀬橋を渡り、観音寺交差点に出る。ここで大山街道八王子街道と交差しており、交差点の前に観音寺がある。

「観音寺」
 観音寺金剛峯寺を総本山とする 高野山真言宗の寺で、創建年代は不詳だが、室町時代の様式を伝える厨子は天文13年(1544)造であることから創建はこの頃かと思われる。
 古くは金亀坊と呼ばれておりその後、観音菩薩を祀った観音堂がこの地域の大火でも難を免れたことから観音寺に改めたといわれる。本尊は十一面観世音菩薩(慈覚大師御作)。恵心僧都の御作と伝えられる一木造りの薬師如来を祀る。
 また、青山往還(厚木大山街道)の赤門寺と呼ばれ遠くは川崎の稲毛方面からも参詣があった。
 宝暦9年(1759)新西国三十三札所、武相卯歳観世音札所第一番となった。

 観音寺交差点を渡ると、下鶴間宿に入る。

 下鶴間宿は、江戸よりおよそ11里、長津田宿まで1里の位置にあり、大山街道八王子往還が交差する交通の要衝でもあった。
 松屋、三津屋、角屋といった旅篭を中心に、染物問屋、居酒屋、餅屋、質屋などの商家が建ち並び賑わっていた。明治初期には、繭や米の市場も開かれていた。
 伊能忠敬測量隊も文化13年(1816)3月18日にこの地を訪れ組頭彦八家に宿泊している。

 観音寺交差点を渡るとすぐ右側に、大山阿不利神社御分霊社がある。

「大山阿不利神社御分霊社」
 創建は不詳。境内奥に立つ銅像の新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉幕府の北条氏を討つために鶴間を通ったことに因むとすればそれ以前と推察される。
 江戸方面から来た旅人は、ここで草鞋を履き替え、身と財布を清めて、金運にあやかるよう祈願したという。
 境内には大黒天開運神社の他、金運長命大国主大神出世太閤豊臣秀吉公霊がある。また入り口のすぐ左手には、新田軍の鎌倉進撃地図が掲げてある。
 神社の前には「相州鶴間村」と刻まれた道標があり、右側面に「是より東江戸十里」、左側に「是より西大山七里」と記されている。

 坂を下り、信号のある交差点の角に「下鶴間ふるさと館」がある。

「下鶴間ふるさと館」
 下鶴間ふるさと館
には、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されている。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、東海道の脇街道である「矢倉沢往還」の下鶴間宿に残された宿場町時代の唯一の商家建築で、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物である。
 
土蔵は前身建物の古材を用いて大正7年(1918)に再建された商家の付属建築で、一般に袖蔵といわれている。

 月曜日・火曜日が休館日で、残念ながら見学することができなかった。目黒川を渡ると急な上り坂になる。坂の途中に、高台に続く長い石段がある。石段の下には不動明王像がある。上半身は傷んで崩れてしまっている。石段を上った上に下鶴間不動尊を祀る社がある。


 下鶴間不動尊の隣は鶴林寺である。

「鶴林寺」
 開山は永禄12年(1569)以前といわれる。本尊は阿弥陀如来。不動堂があり、毎年1月28日の初不動には、だるま市が開かれる。
 境内には、即身仏となった瀬沼嵩信を弔う地蔵や不動明王座像などがあり、明治6年(1873)に設立された公立小学校である鶴鳴学舎(下鶴間学校)の跡地が保存されている。

 鶴林寺を過ぎると、三叉路の右側に「子育て地蔵尊」が祀られている。そして、その向かい側に道標が立っている。この場所は「まんじゅうや跡」である。

「まんじゅうや跡」
 まんじゅうやとは旅館の名前で、旅籠を営みながら饅頭も売っていた。天保2年(1831)、渡辺崋山は弟子の高木梧庵とまんじゅうやに泊まり、その時の様子が「遊相日記」にも記されている。崋山は宿賃を一人につき216文支払っている。また、ここは江戸の火消し「く組」の定宿にもなっている。

 ここから少し歩くと右側に坂上厄除地蔵がある。明和元年(1764)造立の丸彫りの地蔵菩薩坐像が、厄除地蔵として信仰されている。

 そのまま進むと滝山道とのX状のの交差点があり、その右側に日枝神社(山王神社)がある。創建年代は不詳だが、新編相模国風土記稿に記載されている下鶴間村の山王社が、当社に比定される。
 神社の前には、笠塔婆型の庚申塔青面金剛立像がある。


 このあたりは山王原と呼ばれた野が広がり、少し歩いた先には山王原公園もある。そのまま暫らく進み、鶴間二丁目交差点を渡り直進すると厚木街道(旧246)に合流する。その右側歩道の左側に「大山街道説明板」がある。


 この先少しで小田急江ノ島線の鶴間駅だ。今日はここまでで終わりとし、解散。

第7回に続く      



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