大山道を歩く

No.7


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第7回 鶴間前〜西鶴間交差点〜大和斎場入口交差点〜ひばりが丘高校前交差点〜さがみ野二丁目交差点〜さがみ野駅入口交差点〜大塚本町交差点〜赤坂〜望地交差点〜国分寺〜温故館〜海老名駅入口交差点〜海老名駅前

H30年6月12日   

 10:30、小田急江ノ島線の鶴間駅前に、8名が集合、心配していた台風5号も去り、暑い一日になりそうだ。本日の目的地・海老名駅に向け歩きはじめる。
 鶴間駅前から、厚木街道(旧国道246号)を暫らく歩くと左手に泉の森公園が見えてくる。さらに歩を進める。


 「大和斎場交差点」で二又に分岐している道を右に進む。右手に西鶴寺を見ながら歩くと国道246号(大和厚木バイパス)にぶつかる。大山街道はこれを横切ってゆくのだが、ここで渡ることができず右方の「ひばりが丘高校前交差点」まで行き、そこで渡ってまた戻ってくる。
 まっすぐの道を暫らく進むと、大山街道を説明した石碑が立っている。その前を通り過ぎると間もなく相模鉄道の踏切だ。左手にさがみ野駅がある。


 踏切を渡りまたしばらく直線状に続く道路を歩くと、「大塚本町交差点」に出る。大塚宿はこの交差点の近くにあった。明治・大正時代まで、鍛冶屋、豆腐屋、車大工、酒屋、菓子屋、旅籠、木賃宿などが建ち並び、江戸末期には大変賑わっていた。
 宿場の西南端辺りに大塚があった。頼朝の時代、早川村と上今泉村がここで戦い、戦死者が出たため、ここに塚を作り、埋めたと伝えられている。当初、大きな円墳があったらしいが、今はない。

 大塚本町を過ぎ、またしばらく歩き、信号のある交差点で、街道を外れ右に少し行ったところにあるコメダ珈琲店で昼食を摂る。

 街道に戻り、天野原、パブコ前などのバス停を過ぎ、さらに進むと赤坂バス停がある。その手前右手奥に、富士塚庚申塔があるので、街道を逸れ、行ってみる。
 動物病院の脇の細い道を入り、トラックがたくさん止まっている駐車場の脇を通り過ぎ少し行くと富士塚がある。宝永4年(1707)の富士山の爆発時の火山灰を積み上げて造ったとされる小さな塚である。塚の上には、文化13年(1816)に柏ヶ谷の講中が立てた庚申塔がある。


 再び街道に戻る。赤坂バス停のところに、根回りが太い銀杏の古木がありその下に不動明王座像があり、それを囲むように7体ほどの石造物がある。道標には「右国分・左大塚・鶴間」の文字が刻まれている。


 赤坂バス停から緩い坂にさしかかると、街道から左に入る道がある。曲がり口に「渡辺崋山ゆかりの道」の案内板がある。
 この道は、古東海道との言い伝えがある。天保2年(1831)渡辺崋山は弟子の高木梧庵を連れて、江戸から大山街道を下り、この古道から小園村に入り少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」を訪ねたのである。
 この時の旅を綴ったのが「遊相日記」である。
 小園広場の墓地には素朴なお銀さまの墓がある。(今回はここへは行かない)

 渡辺崋山ゆかりの道の案内板から坂を下っていくと「望地(もうち)交差点」に着く。ここから左手、二又の道の右側の道を行く。
 坂を上っていくと公民館があり、その前の空き地に馬頭観音がある。坂を突き当りまで下りて右折すると、道祖神がある。


 再び旧国道246号に戻り、目久尻川を渡り、目久尻川沿いの道に右折する。少し先のフェンスの中に石橋供養塔がある。宝暦7年(1757)、橋を石橋に架け替えるための募金活動をした地元の篤志家、重田七三郎の功績を称えるために建てられたものである。


 左手前方に伊勢山自然公園があり、公園沿いに歩いて行くと、再び厚木街道に戻る。中洲のようなところに史跡逆川碑がある。
 石碑のある場所には、かつて、逆川(さかさがわ)という川が流れていた。逆川は、7世紀のころに造られた日本最古の運河とされ、条里制の農地である海老名耕地の灌漑と、運送の用のために掘られたとされている。
 ここには、目久尻川の石橋に一部が保存されている。関東大震災で崩れ、川に埋まってしまった橋の一部を掘り出して移したものである。


 この先の国分宿は江戸から14里、下鶴間宿へは2里、厚木宿へ1里の地にあり、村役場が置かれていた。旅籠、茶屋、居酒屋、床屋、煙草屋などが軒を連ね、大変賑わっていた。

 大山街道八王子街道との交差点を左に折れ少し行ったところに旧国道246号に架かる橋があり、ここからパノラマ状に広がる丹沢・大山が眺められる。


 大山街道と八王子街道との交差点の先に、嘉永年間(1848〜54)に作られた道標(国分宿石塔)があり、「東江戸つる間、南藤沢かま倉、西大山あつ木、北八王子はしのやと」と記されている。

 この先、坂を下ったところに、神奈川県の天然記念物に指定されている大欅がある。周囲75m、推定樹齢560年以上とされている。昔、国分の下方一帯は海であった。漁師が舟を繋ぐ杭を打ち込んだところ、その杭から芽が出て、枝が茂ったという伝説が残っている。


 大欅の横の道を入っていくと、その突き当りが国分寺である。

「相模国分寺」
 天平13年(741)、聖武天皇の詔勅によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の8世紀中期の創建とされる。以来時代とその変遷をともにし、源頼朝の時に一時その荘厳を維持するも、南北朝を経て戦乱の時代に入り、兵災罹り堂塔以下悉く灰燼に記したが、幸に寺域の一部丘陵の上に残った薬師堂を現在の境内に移し再興された。
 現在の相模国分寺には本堂、客殿、そして鐘楼がある。本堂には本尊の薬師如来、脇侍仏として日光菩薩・月光菩薩、そして十二神将などの仏像が安置されている。鎌倉時代に作られた梵鐘は、国の重要文化財に指定されている。

 現在の国分寺を参拝した後、大欅のところへ戻り、街道を横切り暫らく進むと右手に相模国分寺跡が広がっている。

「相模国分寺跡」
 現在の国分寺から北西に約100メートルの場所にある。伽藍を区画する区画溝から、寺域は東西240メートル・南北は300メートルと見られている。
 伽藍は東西160メートル・南北120メートルの回廊に囲まれ、南の中門から正面に講堂があり、東側には金堂、西側には高さ65mの七重塔を備えた法隆寺式の伽藍配置をなしていた。
 跡地には礎石の一部が残されている。

 相模国分寺跡の前に海老名市温故館がある。もとは大正7年(1918)に海老名村役場庁舎として建てられたもので、昭和57年(1982)から、相模国分寺などの史料を保存・展示する郷土資料館になった。


 温故館見学後、また大欅のところまで戻り、国分坂を下り「国分坂下交差点」を横切り暫らく進み、「海老名駅入口交差点」を右折すると海老名駅に到着だ。今回はここまでとし解散。



第8回に続く      



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