大山道を歩く

No.9


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。


第9回 本厚木駅前〜旭町三丁目交差点〜旭町四丁目交差点〜富士見町町交差点〜三嶋神社〜リバーサイド団地前〜酒井前田交差点〜片平交差点〜愛甲石田駅前

H30年9月18日   

 10:30、本厚木駅前に、5名が集合、今回は少しメンバーが少ないが、晴天の下スタート。駅南口を出て、駅前の道を暫らく進むと旭町三丁目交差点に出る。ここが大山街道だ。ここを右折すると間もなく右手に最勝寺がある。

「最勝寺」
 最勝寺は、上杉謙信が再建した禅宗の寺である。昔、旅の僧が阿弥陀仏を背負って厚木に来た。閻魔堂で一夜を過ごし、翌朝、仏像を背負い旅立とうとしたが、どうしても仏像を動かすことができない。そこで、僧はそこへ仏像を安置して拝んだところ、村は疫病から救われたという伝説がある。
 その閻魔堂の隣に寺を建立したのが、最勝寺の始まりと言われている。

 最勝寺を出て、大山街道を南に向かって少し歩くと、熊野神社がある。

「熊野神社」
 厚木熊野神社の創建年代等は不詳ながら、寛元元年(1243)に相模国愛甲庄が熊野山領となっていたことから、熊野社が勧請されたのではないかといわれ、往古は村の総鎮守だったという。
 神社境内は、熊野森と呼ばれ、大木鬱蒼たる森であったが大正末年に神木の銀杏を一本残して全て伐採されてしまった。この大銀杏は樹齢450年以上で、根元の幹の直径が3mもある。
 熊野森は、江戸末期渡辺崋山来厚の時描いた「厚木六勝」の一つとして描かれている。

 熊野神社から少し歩いた右手奥に智音寺(智音神社)がある。

「智音寺(智音神社)」
 智音寺は、天正年間(1573〜92)の開基という真言宗の古刹だが、明治の廃仏毀釈運動により寺を廃業し、今では神社になっている。
 ここには、那須与一のお墓があると伝えられる。屋島の合戦の後、鎌倉に引き上げてから与一が目の病にかかった時、厚木の天王森に祭られた薬師如来が眼病に効くと伝え聞き、祈願を行うと完治した。その礼として智音寺を建立したとされる。
 境内には、鬼子母神堂がある。このお堂は高部源兵衛という厚木で大きな呉服商を営んでいた方が、今の旭町4丁目付近に立てたものを大正末期以降に智音寺の境内に移設したものだそうである。

 智音寺から大山街道に戻り、左斜めに入る道へ。途中の二又を右に進み、元の広い道に戻り、またすぐに左斜めに入る。ここは大山街道の旧道であろう。
 旭町四丁目交差点を左折し、ソニー・テクノロジーセンターの正門前を通っていくと、やがて道路沿いに富士見公園が現れる。富士見町交差点の右側には、「旧平塚街道」と記した新しい石柱が立てられている。


 岡田一本杉バス停を過ぎ更に歩き、東名高速道路の手前、十字路の角に「矢倉沢往還」と記した新しい石柱があるところを左折すると三嶋神社である。

「三嶋神社」
 三嶋神社は静岡県三嶋大社の祭神「大山祇神」を勧請したもので、その起源は定かではないが、天正拾9年(1591)11月徳川家康公より御朱印状が下附され、又、天保10年(1839)9月に修復されたことが文献に残されている。
 境内には銀杏・欅・椎などの古木が茂り、緑青に覆われた拝殿の屋根など、古社の雰囲気が漂う。

 三嶋神社を出て、東名高速道路の高架下の交差点を右折した少し先の右手に永昌寺がある。

「永昌寺」
 永昌寺は別名鰻観音と呼ばれている。昔、相模川が洪水の時、鰻が濁流から逃れ、清水を求めて掘を上り、永昌寺の境内に集った。それ以来、村人は鰻を水神の使いとして崇めたと伝えられている。
 境内には、大木がなく一面に芝生が広がっている。入口近くには、赤い頭巾をかぶった五地蔵石仏が並んでいる。

 永昌寺を出て大山街道に戻る。この辺りにあった岡田宿は、永禄12年(1569)、武田信玄が小田原に向った時、ここに陣を置いたといわれている。

 東名高速道路の下をくぐり、少し歩いた右手に長徳寺がある。

「長徳寺」
 長徳寺の宗派は浄土真宗東本願寺派。開祖は浄光で、建長元年(1249)といい、もとは真言宗寺院であったが寛喜元年(1229)に親鸞が関東逗留の時、弟子となり改宗したという。本尊は阿弥陀如来像である。
 戦国期、当時の領主・津久井城主内藤左近将監の推挙で、天正年間(1573〜1592)に当時の小田原城主北条氏直公より寺領10石を、慶安2年(1649)に徳川家光公より寺領10石を賜るが、元禄16年(1703)の元禄大震災に本堂より失火し、御朱印と秀吉の製札が焼失したという。
 本堂は、正徳元年(1711)の建立で、市内の浄土真宗本堂ではもっとも古く、また規模も大きい。

 長徳寺を出て街道を進むと右側に法徳寺がある。

「法徳寺」
 開基は、栃木県野木町にある浄土真宗本願寺派法得寺に生まれた教信坊である。教信坊が往生されたのが、永正元年(1504)と過去帳には記されており、500年の歴史がある。
 教信坊は、栃木県より聖徳太子像を背負い、現在の地(神奈川県厚木市)にたどり着き、念仏の道場を建てたと伝えられている。現在でも、その聖徳太子像は寺の寺宝として大切に受け継がれている。

 今日歩いている大山街道沿いには寺社が多い。法徳寺を出てさらに街道を進み、岡田用水掘を越えると、厚木リバーサイド団地が広がっている。リバーサイド前のバス停を過ぎた少し先、右角に石造物がある右ト字路を右折して一本目の道を左折すると、古びた薬師堂(酒井寅薬師)があり、その隣に法雲寺がある。


「薬師堂(酒井寅薬師)」
 薬師堂は別名酒井虎薬師とも言われ、平安時代、相模川の洪水で悪病が流行した時、恵心僧都が流木に薬師像を彫り、悪病退散を祈願したと伝えられている。
 薬師堂の本尊である薬師如来像は、南北朝時代の作と推定される寄せ木造りの立像で秘仏で、12年に一度寅年に開帳する。この時行われる双盤興行は何百年も伝承されている貴重な無形文化財である。
 堂内には本尊の他に不動明王(現在は法雲寺本堂に安置)閻魔十王像、奪衣婆なども安置されている。
 薬師堂の脇には道標がある。元々は酒井のバス停付近にあったもので、銘は摩滅により判別ができないが、頂部に不動尊があしらわれ、酒井村が矢倉沢往還八王子道といった街道の追分けであったことがわかる。


「法雲寺」
 法雲寺は、酒井を長く領した山角氏が戦国時代の天正年間(1573〜1592)に再興した氏寺で、浄土宗の寺である。本尊は阿弥陀三尊、木造り不動明王立像は県指定の重要文化財となっている。

 大山街道に戻り、西に進むとすぐ、岡田交差点に着く。交差点を越え、暫らく進むと、玉川に架かる新宿橋を渡る。新宿橋の脇には道祖神がある。この辺りは、以前は、酒井宿があったところである。
 しばらく直線状の道路を、鳥居の奥にある稲荷祠などを見ながら進んでいくと、前方に高架の小田原厚木道路が見えてくる。この高架をくぐったところが片平交差点だ。


 片平交差点を横切り、暫らく進むと玉川橋という橋を渡るが、川は地下水路となっていて見えない。
 橋の手前に、大山道と記された石柱がある。橋を渡った右側に、愛甲宿の道標である庚申塔がある。享保元年(1716)の銘があり、左に「大山道」、右には「あつぎ、江戸青山」と刻まれている。


 愛甲宿は比較的小さな宿場で、立て場の他に、まんじゅう屋、木賃宿、紺屋(染物屋)などがあったという。
 大山街道進み、右の小道を登ると、突き当りに六地蔵があり、その左に大厳寺がある。

「大厳寺」
 大厳寺は曹洞宗の寺で、この地で火災の大きな被害があったことに由来する秋葉大権現社が境内に祀られている。また愛甲地区9号墳(大厳寺裏古墳)に位置し、刀などの出土の記録がある。

 大山街道に戻ると、また右に入る小道があり、その奥に円光寺がある。

「円光寺」
 円光寺は、鎌倉建長寺の末寺で、鎌倉時代の弓の名手だった愛甲三郎季隆(すえたか)の墓と伝わる宝篋印塔がある事で知られた寺である。
 この辺りは愛甲氏の居宅跡とも伝わるが、遺構は確認できない。


「法雲寺」
 法雲寺は、酒井を長く領した山角氏が戦国時代の天正年間(1573〜1592)に再興した氏寺で、浄土宗の寺ある。本尊は阿弥陀三尊、木造り不動明王立像は県指定の重要文化財となっている。

 円光寺の先の交差点の角に、天明元年(1781)に立てられた「笠塔婆型の庚申塔」があり、道標を兼ねていて、「右大山道」と刻まれている。

 交差点のすぐ右上にある坂道を上ると、小田急小田原線「愛甲石田駅」があり、今日はここまでで終わりとし、解散。

   

第10回に続く      



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