甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

                                                     2014.5.20

 Hiroが参加している「経堂歴史勉強会」のバス旅行で、埼玉県熊谷市・深谷市の史跡を訪ねて来ました。

 小田急線・経堂駅近くのユリノキ公園を、8時20分に今回の参加者20名を乗せバスは出発、環八通り・目白通りから関越自動車道に入り、「三芳PA」にて、勉強会の常任講師である、大東文化大の宮瀧教授と合流して最初の目的地「妻沼聖天山歓喜院」へ向かう。

 関越自動車道を「東松山IC」で下り、武蔵丘陵・森林公園の脇を通り、熊谷市街を通り抜け暫らく北上すると、群馬県との県境を流れる利根川の少し手前に「妻沼聖天山歓喜院」がある。

 「妻沼聖天山歓喜院」は、「埼玉日光」とも呼ばれる高野山真言宗の別格本山で、「平家物語」で知られる斎藤別当実盛が自らの守り本尊である大聖歓喜天を民衆のために治承三年(1179)に祀ったのに創まり、実盛公の次男斎藤六実長が出家して、建久八年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。

妻沼聖天山歓喜院 貴惣門


 総門である貴惣門は、山口県吉川藩の作事方奉行長谷川重右衛門の秘伝を受け、林門左衛門正道により、嘉永四年(1851)に完成したもので、妻側から見た破風の形に特徴がある。

妻沼聖天山歓喜院
仁 王 門 本   殿 (拝 殿)


 本殿は妻沼の工匠林兵庫正清の設計により施工されその子正信に引き継がれ、四十四年の歳月を費やし安永八年(1779)に完成したもので、奥殿、相の間、拝殿よりなる廟型式権現造りである。建造物の各部材、各壁面を総て彫刻で装飾し、華麗な色彩が施されている、江戸中期の貴重な文化遺構であり、平成24年7月に埼玉県の建造物の第一号の国宝に指定されている。

妻沼聖天山歓喜院 本殿
本殿(左より奥殿・相の間・拝殿)
妻沼聖天山歓喜院 奥殿
奥殿大羽目彫刻(右写真:布袋、恵比須、大黒天の福神三人による囲碁遊び


 妻沼聖天山歓喜院の見学後、歓喜院の脇にある「みよしそば店」で、縁結びセットの昼食を摂り、次の目的地、利根川沿いの熊谷市俵瀬にある「荻野吟子記念館」へ向かう。

妻沼聖天山歓喜院
 境内で売られている「聖天寿し
細長い形状が特徴の稲荷寿司(揚げを縦に半分にして詰めている)
みよしそば店の「縁結びセット
(そばとうどんにちまきのお結び)


 日本の近代女性医師の第1号である荻野吟子は、武蔵国大里郡泰村(埼玉県妻沼町)の代々庄屋を務めた旧家の生まれ。16歳で結婚。夫に淋病をうつされ離婚される。その受療の体験から医を志した。東京女子師範学校(1期生)を経て,東京下谷の好寿院で医学を学び、明治18(1885)年に医術開業試験に合格し、医籍に登録された最初の女性となった。東京湯島で開業。明治23年牧師の志方之善と再婚し、27年夫と共に北海道に渡り、瀬棚郡瀬棚村で開業。開拓事業にいどむが、38年夫が死去。41年東京に戻り江東新小梅町で開業。大正2年に63歳で永眠。(朝日日本歴史人物事典より)

 荻野吟子の生涯を題材とした渡辺淳一の小説『花埋み』とそれを基にした、三田佳子主演の舞台『命燃えて』(1998年に新橋演舞 場にて初公演)でも知られている。

 荻野吟子生誕の地には、荻野吟子記念館があり、荻野吟子ゆかりの資料が展示されている。

荻野吟子記念館


 「荻野吟子生誕の地」は昭和41年に熊谷市指定文化財記念物(史跡)に指定されている。

荻野吟子生誕の地


 「荻野吟子記念館」を見学した後は、国道17号を熊谷市から深谷市へと進み、深谷市血洗島の、埼玉ゆかりの三偉人(渋沢栄一、荻野吟子、塙保己一)のひとり、渋沢栄一の生地旧渋沢邸へ。旧渋沢邸では、深谷市教育委員会の鳥羽さんが待っていてくれ、説明をして下さった。


 近代日本経済の父と言われる渋沢栄一は、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の名主の長男として生まれ,22歳のとき江戸に出て尊王攘夷運動に参加、横浜の異人館焼き打ちなどを企てたあと、京都で一橋(徳川)慶喜の家臣となる。慶喜が将軍となったとき幕臣となり、慶応3(1867)年慶喜の弟昭武に随行してパリ万博に赴き欧米を見学、帰国後徳川家と共に静岡に移住した。

 明治2(1969)年新政府に召されて大蔵省に入り、井上馨と共に財政制度確立に努めたが、各省の抵抗にあい、同6年大蔵少輔事務取扱のとき辞職。日本に株式会社(合本組織)を導入、同年6月第一国立銀行創立に当たり総監役となり、8月開業。8年1月より同行頭取として長く経営に当たった。また7年には王子に抄紙会社(のちの王子製紙)を設立した。

 渋沢の自身の事業は以上の2社が主で、財閥といわれるほどの規模には達しなかった。しかしその本領は財界の指導者としての活躍にあった。9年東京会議所(のちの東京商業会議所)会頭となって長期勤続したのをはじめ、東京・青森を結ぶ日本鉄道会社、最初の本格的紡績企業たる大阪紡績の創立(1881)。その後,東京ガス、帝国ホテル、北海道炭鉱鉄道、東洋汽船、京釜鉄道など重要企業の創立に当たっては発起人として旗振り役を務め、財界の指導者、まとめ役の役割を果たした。
 明治41年には訪米実業団団長として渡米。大正9(1920)年、積年の功により、子爵を授けられた。(朝日日本歴史人物事典より)

 「渋沢栄一生地」にある、旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の主屋は明治28年に再建されたもので、屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓がある典型的な養蚕農家の形を残している。奥の十畳の部屋は、帰郷する栄一のために特に念入りに造らせたといわれている。
 昭和58年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に、平成22年、主屋を中心とした範囲が深谷市指定史跡に指定されている。

渋沢栄一生地 旧渋沢邸「中の家」
主屋の前で深谷市教育委員会の鳥羽さんより説明を聞く歴史勉強会のメンバー
前庭に立つ渋沢栄一の銅像  土蔵(藍玉の製造・貯蔵場として使用されていた)
渋沢栄一の父(右)と母(左)の招魂碑  渋沢平九郎追壊碑(飯能戦争で亡くなった義子・平九郎を偲んで作ったもので、栄一翁が詠んだ詩が刻まれている)


  「渋沢栄一生地」から0.8km程のところに、「渋沢栄一記念館」があるのだが、生憎、本日は休館日のため見学ができず、深谷市起会にある「誠之堂」・「清風亭」へ。

 「誠之堂」と「清風亭」は、ともに世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを平成11年に深谷市の現在地に移築復元したものである。

 「誠之堂」は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されたものである。設計者は、当時の建築界の第一人者であった田辺淳吉。設計にあたっては、条件とされた「西洋風の田舎屋」で「建坪は30坪前後」を守りつつ、独自の発想を凝縮して造り上げた。

 煉瓦造平屋建て、外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられている。平成15年5月、国の重要文化財に指定されている。

誠  之  堂
 壁面に煉瓦で「喜寿」の文字が描かれている。  大広間の暖炉脇の窓の、中国漢代の「画像石」の図柄を模したステンドグラス。

 「清風亭」は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられた。建築資金は、誠之堂と同じくすべて第一銀行行員たちの出資によるものである。
 佐々木勇之助(1854−1937)は、若干28歳での第一国立銀行本店支配人就任をはじめとして、同行の数々の役員を歴任し、大正5年、栄一を継いで第一銀行第2代頭取に就任した。勤勉精励、謹厳方正な性格で知られ、終始、渋沢栄一を補佐した。

 設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時で、鉄筋コンクリート造平屋建、 外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけている。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダアーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られている。平成16年3月、埼玉県指定有形文化財に指定されている。

清  風  亭


 次いで、深谷市上敷免にある、日本煉瓦製造株式会社・旧煉瓦製造施設を見学。ここでも深谷市教育委員会の知久さんが待っていてくれ説明をしていただく。

 明治政府は日比谷周辺を近代的建築による官庁街とするため、明治19年に臨時建設局を設置。建物群は西洋風の煉瓦造りとするため、多量の煉瓦が必要となった。そこで政府は、渋沢栄一に大量生産が可能な機械式レンガ工場の設立を要請した。

 従来から瓦生産が盛んで、煉瓦素地用の良質な粘土が採れること、また小山川から利根川に下り、江戸川を経て隅田川を通り東京方面へ煉瓦を運ぶための舟運が見込めることから、渋沢は実家近くの上敷免村工場建設地として推薦した。


 明治21年に、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンが考案した最新式「ホフマン式輪窯」の建設を始め、この年の9月に1号炉の火入れが行われた。最盛期には6基の窯が稼働していたが、時代の波に押され、平成18年に120年に及ぶ会社の歴史に幕が下ろされた。

日本煉瓦製造株式会社・旧事務所


 現在は、煉瓦資料館として貴重な文書・写真等を展示している旧事務所ホフマン輪窯6号窯、それまでの蒸気機関から電動機に切り替えるため、明治39年市内で最初に電灯線を引き、変電室として建てられた旧変電室、煉瓦の大量輸送可能とするため、高崎線深谷駅から工場まで約4kmの区間に、明治28年日本初の専用線を敷設した。この際備前渠に架けられた「ボーナル型プレート・ガーダー橋」備前渠鉄橋が残っており、4件とも重要文化財に指定されている。

日本煉瓦製造株式会社・旧煉瓦製造施設

ホフマン輪窯6号窯 旧変電室


 ホフマン輪窯6号窯は明治40年の建造で、長さ56.6m、幅20m、高さ3.3mの煉瓦造りで、内部を18の部屋に分け、窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの行程を順次行いながら移動し、およそ半月かけて窯を一周する。生産能力は月産65万個で、昭和43年までの60年間煉瓦を焼き続けた。

日本煉瓦製造株式会社・旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯の復元模型と窯の説明


 時間の関係で、残念ながらホフマン輪窯と備前渠鉄橋は見学できなかった。後日の機会に・・・


 次いで今旅行の最終見学地、国道17号線沿いの深谷市岡にある中宿歴史公園へ。その中にある中宿遺跡は、7世紀後半から9世紀にかけての倉庫群で、律令国家の郡衙(ぐんが=郡役所)の正倉と推定されている。

中宿歴史公園


 岡部町(現深谷市)では、中宿遺跡で発見された建物群の復元工事を平成6〜7年にかけ実施し、倉庫群を代表する規模の1号建物跡、2号建物跡の平面規模、柱穴の規模を参考として、2棟の古代倉庫が復元された。

中 宿 遺 跡
2号建物 1号建物


1号建物跡は校倉、2号建物跡は板倉と呼称される工法となっている。1号建物は約57平方m、2号建物は約53平方mで、1号建物の高さは9.2mもある。復元には青森県産のヒバ材・国産スギ材が用いられ、総工費およそ1億5千万円であったという。

 ここでも、先程渋沢栄一生地で説明をして下さった、鳥羽さんが待っていてくれ説明していただくとともに、普通では入れない校倉の内部を見学させてもらえた。

中 宿 遺 跡
 鳥羽さんより説明を聞く歴史勉強会のメンバー。 1号建物の内部
1号棟の扉には、日本最古の錠である「海老錠」(復元品)が掛けられている。


 中宿遺跡の隣にある「道の駅・おかべ」でお土産を買ったりして(残念ながら深谷ねぎはなかったが)帰路に着く。
 花園ICから関越自動車道に入り、三芳PAで休憩。ここでお世話になった宮瀧先生とお別れし、環八通りから経堂に戻り、ぶじに解散。
 普通の旅ではあまり行かないようなところを見学でき、勉強になりました。宮瀧先生、深谷教育委員会の鳥羽さん、知久さんどうも有り難うございました。

                                                  おわり


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