池上七福神めぐり

                                                        2018.1.5

 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で行っている「歩きま専科」の2017年第一回目は、恒例になりつつある七福神めぐり、今年は「柴又七福神」を巡った。

 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神々であり、また、人に七つの道を示し、人々に七つの徳をそなえさせる福神でもある。
 七福神巡りは、谷中の七福神巡りが最初といわれている。有名になったのは、隅田川の七福神巡り、文化元年(1804)向島百花園が開園されてから始まった。その他各地に七福神巡りが始まり、文化文政の頃からとくに盛んになった。

 柴又帝釈天や映画「男はつらいよ」の寅さんの故郷としてよく知られている。柴又七福神は、昭和8年に始まった七福神巡り。京成高砂駅前に観蔵寺、新柴又駅前に医王寺宝生院、があり、残る題経寺真勝院良観寺万福寺、は、全て柴又駅周辺である。

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 10:30、京成高砂駅に、6名が集合、一時雪という予報もあったが、幸い外れてくれ、ちょっと寒いがスタート。まずは、京成高砂駅北口を出て左へ線路に沿って少し行ったところに観蔵寺がある。

観 蔵 寺 【寿老神】
 観蔵寺は、文明元年(1469)僧空性坊が創建、その後、天文7年(1538)と永禄7年(1564)の二度に亘る北条・里見の国府台合戦で焼失・荒廃したが、承応2年(1653)隆敬法印によって再興された。本尊は聖観世音。
 柴又七福神のうちの一つ寿老人、また南葛八十八ヶ所霊場の第10番、新四国四箇領八十八ヵ所霊場26番である。祀られている寿老人座像は、高さ9p、一木造の大きさである。

 寿老人は、長寿延命、そして福録をもたらす神様とされ、面長の頭部と手に持つ杖が特徴。中国の道教の神様で、南極星の化身の南極老人であるとされている。 

 観蔵寺から高砂駅前に戻り、高砂大通りからさくらみち(旧佐倉街道)を東に暫らく歩き、北総線の下をくぐり、柴又5丁目交差点を左に折れ、すぐ右折し新柴又駅の沿っていくとすぐ右手に、恵比須神を祀る医王寺がある。

医 王 寺 【恵比須神】
 医王寺は、観賢法印が応永14年(1407)に創建、下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたと伝えられる。その後、戦国時代の国府台合戦で罹災、寛永年間(1624-44)金蓮院の僧某が再興、医王寺と改称した。柴又七福神のうちの福徳恵比寿天で、南葛八十八ヶ所霊場57番札所である。本尊は薬師瑠璃光如来。

 恵比寿天は、大国主命の御子神にあたる事代主命で、大変釣りを好まれたので、烏帽子に狩衣をまとい、右手に釣竿、左手に鯛を抱えて岩に座った姿をしている。もともとは海上安全・航海安全の神とされていたが、のちに商売繁盛の神としても広く信仰されるようになった。

 医王寺を出て北総線の下をくぐり二つ目の十字路を右手に行くと左手に、大黒天を祀っている宝生院がある。

宝 生 院 【大黒天】
 宝生院は、寛永元年(1624)常陸国大聖寺末宝性院として京橋付近の創建、下谷谷中への移転を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転したという。関東大震災で罹災し、昭和2年(1927)当地へ移転した。柴又七福神の一つで、南葛八十八ヶ所霊場の50番札所である。本尊は大黒天立像。
 鎌倉時代に彫られたと伝えられる大黒天は、別名「出世大黒天」と言われ、大きな袋と打ち出の小槌で。多くの人々を救済する。出世財福の御利益で知られ、徳川将軍家からの信仰も篤かったようである。

 大黒天は大国に通じ、大国主命に結びつき福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになった。小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし人々に財宝を授ける福神である。

 宝生院を出て前の道を暫らく進むと住宅街に挟まれた遊歩道に出る。柴又七福神のコースを示す石の案内板が立っている。ひかり学園(幼稚園)の先で右に曲がると左手に福禄寿を祀る万福寺である。

万 福 寺 【福禄寿】
 万福寺は、昭和3年(1928)の創立。柴又新四国八十八ヶ所霊場が前身である。この地から人骨数体が発掘されたため、地元の人々の要望に基づくという。昭和23年(1948)に、正式に万福寺になった。
 境内には110体の弘法大師石像が安置されている。本尊は釈迦牟尼仏。柴又七福神のひとつ福禄寿。

 短身で白い髭の福禄寿は、中国の神様で、南極老人星の化身。福は幸福、禄は高禄、寿は長寿三徳を兼ねた神様。背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神である。

 万福寺を出て真っ直ぐ進み、突き当りを左に折れすぐ右に曲がると右手が毘沙門天を祀る柴又帝釈天で知られる題経寺である。正月5日ということもあり、初詣の人出で賑わっている。

題 経 寺(柴又帝釈天) 【毘沙門天】
 題経寺は市川市中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したという。本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となり、現在に至るまで庚申の日を縁日としている。本尊は帝釈天板木で、本尊の横に毘沙門天が祀られている。

 帝釈天は仏教の守護神である天部の一つで、軍神・武勇神インドラと呼ばれ、梵天と共に護法の善神とされている。帝釈天須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、三十三天の主であると同時に四天王を統率し、正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神である。

 毘沙門天はインド名バイスラバンナの音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられ、仏神となったもの。四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大勢の夜叉や羅刹を率いて北方を守護している。その姿は、身に甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手には三叉戟(三つまたの槍)を持ち、忿怒の形相で邪鬼を踏みつけ毘沙門立ちをしている。

 題経寺を参った後、題経寺に沿って江戸川方向に歩き、正月でもあり、ちょっと贅沢に、創業220余年、江戸後期(寛政年間)から続く川魚料亭の川甚で鰻を食する。
 昼食後は江戸川の土手に上がり、土手の上から矢切の渡しを眺める。矢切の渡しは、江戸時代初期、地元民専用に耕作や対岸の農地への移動手段として使われるとともに、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、「金町・松戸の渡し」と呼ばれていた。
 明治初期には、関所廃止及び陸運の発達のため、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されるようになり、各地で渡し船を廃止するところが場を閉めるようになった。
 隅田川では、戦後まで運行を続けている渡し舟もあったが、「佃の渡し」が昭和39年、「汐入の渡し」が昭和41年を最後に廃止され、現在、東京近郊で定期的に運行されている渡しは、「矢切の渡し」のみとなっている。
 この「矢切の渡し」が世に広まったのは、明治39年(1906)、雑誌「ホトトギス」に発表された、矢切を舞台に、政夫と民子の悲恋の物語を描いた小説「野菊の墓」や昭和57年(1982)に細川たかしが歌った、歌謡曲『矢切の渡し』等による。


 矢切の渡しを見て土手を下り、柴又公園のところにある「寅さん記念館」を見学する。館内には、『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、松竹大船撮影所2000年閉鎖)から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナー、記念撮影コーナーなどがある。寅さんファンにとっては必見の記念館だ。

寅さん記念館

 寅さん記念館を見学後、題経寺まで戻りその前を通り過ぎ、突き当りを左に折れた先右手に、弁財天を祀る真勝院がある。

真 勝 院 【弁財天】
 真勝院 は、大同元年(806)の創建と伝えられ、江戸時代までは柴又八幡神社の別当寺であった。天文7年(1538)および永禄7年(1564)の国府台合戦の兵火に罹り、焼失したが、その後幾度かの再建を経て、現在に至っている。柴又七福神のうちの弁財天、新四国四箇領八十八ヵ所霊場28番である。本尊は不動明王。

 弁財天は、インド名をサラスバティという川の名で、意訳して、大弁天、美音天といわれ、この川の神が、悪声を変じて美声に変える音楽の神芸術の神であった。仏教の神となり、才智弁舌の神とされ、我が国では、弁才天より弁財天として、財宝を施す福の神として信仰されるようになり、商売繁盛の富有の福徳を授け、芸道音楽の位置づけられた。
 一般に祀られている弁財天は琵琶を持った姿が知られているが、真勝院の弁財天は「金光明景勝王経」に説かれる8本の手に弓や剣を持つ、八臂弁財天像で、頭には人頭蛇身の宇賀神が乗る珍しいもの。

 真勝院を出て右に進み、柴又街道に出て右に折れて進み、金町浄水場の前の踏切を渡ったところが宝袋尊を祀ってある良観寺だ。

良 観 寺 【宝袋尊】
 良観寺は、創建年代は不詳だが、室町時代末期から江戸時代初期にかけての間に念仏堂として建立されていたと考えられ、その後両観寺・了観寺として一寺となっていたという。寛政7年(1795)本堂再建の棟札には、了観寺とあるから、良観寺と改ったのはその後であろう。
 江戸時代には、<尻手の観音>として知られ、毎年4月18日の縁日には、遠近からの参詣者でにぎわったという。柴又七福神のうちの宝袋尊、江戸川七福神の布袋尊、また南葛八十八ヶ所霊場の52番、新四国四箇領八十八ヵ所霊場29番である。本尊は聖観世音菩薩立像。

 宝袋尊は、もとは中国・唐の末期に実在したとされる仏教の禅僧で、弥勒菩薩の化身とも言われている。
 普通は「布袋尊」と描くのに対し、良観寺は宝袋尊と書くのは、江戸時代の初期、都からの帰りに山中で道に迷った商人が民家だと思って一夜を過ごしたのが大木のうろの中であった。その奥に布袋尊像があったので、家に持ち帰り、一夜の宿の恩を毎日感謝し礼拝すると、ますます商売繁盛するようになり、その噂を伝え聞いた人々がお店に詰めかけ御利益にあずかり、いつの間にか宝袋尊と呼ぶようになったとのこと。

 これで七福神を巡り終え、柴又街道を戻り、帝釈天の参道をぶらつき、「男はつらいよ」のだんご屋であった「とらや」(1〜4作目まで)で草だんごを頂き、「男はつらいよ」の撮影のたびに、山田洋次監督以下、スタッフや役者が、休憩や衣装替えに部屋を貸りるなど柴又ロケの拠点として愛用していた、寅次郎のおいちゃん、おばちゃんが経営するだんご屋のモデルとされている高木屋老舗で土産に草だんごを買ったりして柴又駅へ。ここで解散する。


 柴又と言えば帝釈天と「男はつらいよ」の寅さんで知られる街で、柴又の駅前には、寅さんの像と最近建てられた寅さんの妹さくらの像建っている。



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