世界遺産 富岡製糸場を訪ねる

                                                     2023.8.31〜9.1

 今回の旅行は、かみさんと2人で、阪急交通社のツアーに参加し、徳川家康ゆかりの地を巡り、大井川鐡道のアプト式列車に乗車するという旅です。

・第1日目(8/31 木)
 新幹線での出発ということで、東京駅に8:50の集合。参加者は34名で、添乗員さんは男性の崎田さんだ。「こだま713号」に乗り込む。晴天の中、定刻の9:27に東京駅を発車。10:31分着の新富士駅にて下車。
 新富士駅前には、バスが待っていてくれて、我々一行を載せてスタート。国道1号を走り、およそ1時間で清水のエスパルスドリームプラザに到着。ここで各自自由に昼食を摂る。

エスパルスドリームプラザ

 ここから観光のスタートだ。まず第1の観光地日本平へはおよそ30分で到着。ここから日本平ロープウェイで久能山駅へ下る。

 日本平ロープウェイは徳川家康公ゆかりの久能山東照宮と名勝、日本平とを5分で結ぶ全長1065mのロープウェイ。殿様をイメージした漆黒の「あおい号」と、お姫様をイメージした金色の「たちばな号」の二つのゴンドラが運行している。
 車窓からは眼下に屏風谷をはじめ、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎などの絶景が広がる。

 久能山は推古天皇の時(西暦600年頃)久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て観音菩薩を安置し、 補陀落山久能寺と称したとあり、久能山の名称もこれから起こったと思われる。
 永禄11年(1568)武田信玄は久能山が要害であることを聞き久能寺を近くの北矢部に移し山上に城砦を設け久能城と称した。天正10年(1582)武田氏亡び、駿河の国一帯が徳川氏の領有するところとなったので久能山も自然徳川氏のものとなった。元和2年(1616)4月17日家康公の薨後、久能城を廃止し、東照宮を建立し現在に至っている。

 東照宮の御祭神である徳川家康公は、晩年を駿河国(現在の静岡県)駿府城で過ごされ、元和2年(1616)4月17日に75年の生涯を結ばれた。亡くなる直前、余命いくばくもないことを悟られた家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託した。
 ご遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠公は久能山に徳川家康公を祀る神社を造営することを命じた。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮である。

 社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされた。また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城・仁和寺・二条城など現在にも残る重要な建造物を手がけたが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定された。

 東照宮参拝の後、再びロープウェイで日本平駅に戻り、日本平山頂の夢テラス・展望回廊へ行く。

 日本平は駿河湾の沿岸近くにある有度山の山頂とその一帯で、最高地点の有度山山頂は標高307メートルで、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈(南アルプス)も望める。山腹には広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑が広がる。
 山頂部には山頂吟望台と平成30年(2018)11月3日にオープンした日本平夢テラスと一周約200mの展望回廊があり、富士山と清水港などの展望地となっている。


 日本平を出ておよそ30分ほどで、静岡駅近くの駿府城公園に到着。

 徳川家康は、今川氏の人質として過ごした幼年期、壮年期、晩年の期間を駿府(現静岡市街地)で過ごした。天下統一を果たした家康は、将軍職を息子・秀忠に譲り大御所となり、駿府に拠点を置くことに決め、慶長12年(1607)、駿府城の普請を開始し、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を築城させた。

 家康の死後、寛永12年(1635)の火災により天守等のほとんどの建物が焼失した。戦後、本丸、二の丸部分は公園として整備された。 公園内には、唯一富士山が望める地点である富士見広場があり、その南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元された。他にも、巽櫓(たつみやぐら)や東御門なども復元され、資料館なども設置されている。さらに、徳川家康の像や、家康が植えたと伝えられているミカンなどもある。


 駿府城公園を散策した後は、近くにある静岡浅間神社へ。境内の一角にどうする家康 静岡 大河ドラマ館があり、まずそこを見学する。

 「天下を意識し始めた家康を支えるもの、対峙していくもの」と「家康にとっての2度目の駿府」を主なテーマに、家康、瀬名、今川義元、秀吉の衣装4点が公開されるほか、館内4Kシアターでは上映中の出演者インビュー付き映像を見ることができる。


 大河ドラマ館を見学後、静岡浅間神社を参拝する。

 静岡浅間神社は総称で、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。

神部神社 (かんべじんじゃ)
 祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと) - 駿河国開拓の祖神
 崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。
浅間神社 (あさまじんじゃ)
 祭神:木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)
 全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。
大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
 祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと) - 倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命を指す
 応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは奈古屋神社と称された。延喜式内小社で祈年の国幣に預った

 貞応3年(1224・元仁元年)執権北條義時公は当社に使いを差遣し社頭を検分せしめた。延元3年(1338)今川範国公は願文を納め、範氏公は天下泰平の祈願を修し、義元公は老母寿桂尼に無上の満足あらんことを祈願して、菩薩舞装束一式を奉納する等、今川家は氏神として庇護した。人質であった家康公(竹千代)は義元公が烏帽子親となって当社で元服式を行った。以降徳川氏のあつい尊崇を受けて、大御所として入府以来崇敬の真心を捧げ、徳川幕府の祈願所と定めた。

 境内は4万5千平方メートル。広壮華麗な社殿群はいずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ25メートルあり、殿内は132畳敷きの広さがある。

 静岡浅間神社の参拝を終え、本日の宿泊地浜名湖雄踏温泉へ。18:30にホテル「THE HAMANAKO」に到着。


・第2日目(11/22 MON)
 今日は大井川鐡道アプト式列車に乗車だ。8:00晴天の下、ホテルを出発。東名高速、新東名を経て大井川沿いを走り、途中、道の駅川根温泉でトイレ休憩後、10:20大井川鐡道・奥泉駅に到着。ここから井川線・南アルプスあぷとラインに乗車し接岨峡温泉駅まで行く。


 9:49発の接岨峡温泉行きの列車に乗車、次の駅、アプトいちしろ駅にてアプト式機関車を連結し次駅、長島ダム駅までの1000分の90という日本一の急勾配を上っていくのだ。

 アプト式とは、カール・ロマン・アプトさんが発明した、急勾配を上るための鉄道システム(ラック式鉄道)の一種。現在日本でこのアプト式列車に乗ることができるのは、大井川鐵道の南アルプスあぷとラインだけ。アプト式機関車には「ラックホイールピニオン」という坂道専用の歯車が付いていて、線路の真ん中に敷設された「ラックレール」という歯形レールを噛み合わせて坂道を上り下りする。

 右手に長嶋ダムを見て進むと間もなく長島ダム駅、ここでアプト式機関車を切り離す。右手にダム湖を眺めながらいくつかのトンネルを抜け、ダム湖に架かるレインボーブリッジを渡ると奥大井湖上駅に着く。

 奥大井湖上駅は、長島ダムの建設に伴い誕生したダム湖(接岨湖)の左岸につき出た半島状の場所に立地。その半島の両脇には南アルプスあぷとライン(井川線)の鉄橋奥大井レインボーブリッジが架かり、まるで湖の上に浮かんでいるかのように見える、とても不思議な駅だ。(奥大井湖上駅の写真は大井川鐵道のホームページより)

 停車時間が短く、残念ながら降りて見ることができず発車、間もなく接岨峡温泉駅に到着、下車する。


 駅から少し下った県道にバスが待っていてくれた。今回の旅の観光はこれで終わり、昼食の場所焼津に向かう。途中、千頭の道の駅・音戯の里でトイレ休憩し、13:30焼津のさかなセンターに到着。
 昼食は寿司の食べ放題だ。食事後さかなセンターでお土産を買ったりして、新富士駅へ向け出発。東名高速を走り13:40新富士駅に到着。16:13発のこだま730号で一路東京へ。定刻17:18東京駅着し解散、無事帰宅する。

 今回天候にも恵まれ、家康公ゆかりの地と大井川鐡道の日本でここだけという日本一急勾配を上るアプト式列車に乗ったりと楽しい旅ができた。
 添乗員の崎田さん、お世話様でした。お陰で楽しい旅をすることができました。いつかまたどこかでお会いできるかもしれません。楽しみです・・・・・・。

                                        おわり



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