湘南・西湘の歴史散歩

                                                     2016.5.10

 Hiroが参加している「経堂歴史勉強会」のバス旅行で、湘南・西湘の歴史散歩をして来ました。
 小田急線・経堂駅近くのユリノキ公園を8時20分に、勉強会の常任講師である、大東文化大の宮瀧教授と奥様を含めた参加者20名を乗せバスは出発。環八通りから東名高速道路に入り走行、「海老名SA」でトイレ休憩後、厚木ICから小田原厚木道路に入り、小田原西ICで下り、最初の目的地「小田原城址公園」へ。

 小田原城天守閣の諏訪間館長のご説明を受けながら、銅門から二の丸へ入り、常盤木門をくぐり5月1日にリニューアルオープンしたばかりの天守を見上げる本丸の広場へと案内していただく。

銅   門
 銅門(かりがねもん)は、江戸時代の小田原城二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたる。渡櫓門、内仕切門、と土塀で周囲を囲む桝形門の構造で、渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾がなされている。
 現在の銅門は、平成9年(1997)に復元されたもの。

銅門の土塀の模型 常盤木門
 この模型は、銅門の復元を行う際に、事前に制作されたもので、江戸時代の工法、技術を採用しているため、使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確認するために作られたものである。  小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅牢に造られていた。周囲の多門櫓と渡櫓を配した桝形門の構造を持ち、そばにある巨松になぞらえてその名が付けられたという。
 現在の常盤木門は、昭和46年(1971)に再建されたものである。


 小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北条早雲に始まる小田原北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備された。
 天正18年(1590)小田原合戦により豊臣秀吉に明け渡され、その後、徳川家康の家臣である大久保氏が城主となる。
 明治維新を迎え、明治3年(1870)に廃城浄たなり解体されたが、昭和35年(1960)、江戸時代に造られた模型や引図を基に復興された。
 平成27年7月から行われていた大改修を終え、平成28年5月1日に小田原城天守閣がリニューアルオープンした。

小田原城天守閣


 リニューアルオープンしたばかりの天守閣の中を見学する。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原北条氏の歴史を伝える資料などが展示されている。

 小田原城見学後、近くの国道1号線沿いにある「ういろう本店」に寄り、小田原銘菓「ういろう」など、お土産を買ったのち、国道1号線を走り、酒匂川を渡った川沿いにある食事処「すし政」にて昼食。
 食事処の前、川沿いに「酒匂川の渡し」の碑がある。

「酒匂川の渡し」跡
 酒匂川に架かる国道1号(東海道)の橋(酒匂橋)の北詰から 50mほど川上に遡ったところに、自然石に「酒匂川の渡し」と書かれた大きな石碑が建っている。
 碑には歌川広重の「東海道五十三次」の「小田原」の図が添えられている。小田原の図はこの場所から見たものといわれている。


 昼食後は西湘バイパスを走り、大磯町にある高来神社へ。大磯町一帯には、後に武蔵国高麗郡の中心人物高麗王若光(じゃくこう)に関する伝承が数多くある。

高来神社(高麗神社)


 高来(たかく)神社(高麗神社)は、神功皇后(170〜269)の三韓征伐(新羅出兵)に勝利した際に、重臣の武内宿禰(たけうちすくね)が高麗大臣和光を奉ったのが高麗権現社の起源といわれている。
 717年僧行基菩薩がこの地を訪れ、高来山に登って千手観音像を本地仏として創建したとある。
 鎌倉時代になり朝鮮半島で高麗王朝が繁栄し、朝鮮を高麗と呼んでいた。この頃より高麗寺と呼ばれるようになる。そして、将軍源頼朝から正室北条政子の安産祈願をして神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院があり、相模の大社寺に列せられていた。
 戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になったが、その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していく。
 江戸時代になると、徳川家康より寺領百石と山林を賜り、徳川家康の神影である東照宮が併せ祀られ、諸大名は参勤交代の折に馬を下りて参詣した神社である。
 上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続いた。
 明治時代に入り、神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30年(1897)に高来神社と改称され、現在に至っている。

 高来神社見学後は国道1号線を走り、平塚市美術館に寄る。美術館の安倍学芸員からお話を伺い、「萬 鉄五郎×岸田劉生 その仲間たち」という、現在開催中の企画展を見学する。
 大正期に、萬や岸田が湘南の地に転地療養にやってくると、彼らを慕う画家たちも集うようになった。この企画展では、萬鉄五郎、岸田劉生と、彼らに影響をうけた画家たちの作品が展示されている。全体的にちょっと暗い感じのする絵画が多かった。

平塚市美術館


 平塚市美術館見学後は、国道1号線を相模川を渡り、新湘南バイパスの茅ヶ崎西ICのすぐ先にある「旧相模川橋脚」を見学する。茅ヶ崎市教育委員会の須藤さんに説明をしていただいた。

旧相模川橋脚


 旧相模川橋脚は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、当時の水田に橋杭が出現したという全国的にも珍しい遺跡である。
 当時の歴史学者沼田頼輔によって鎌倉時代の建久9年(1198)に源頼朝の家臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考証され、大正15年(1926)に史跡に指定された。また、橋脚の出現状況が関東大震災の地震による液状化現象をよく示していることから、平成25年にはあらたに天然記念物に指定された。

 旧相模川橋脚を見学後、茅ヶ崎西ICから新湘南バイパス、圏央道、東名高速道路を走り、環八通りから経堂に戻り、解散となった。
 

 リニューアルなった小田原城天守閣、そして、高来神社や旧相模川橋脚など普通はあまり行かないようなところを見学でき、勉強になりました。宮瀧先生、小田原城天守閣の諏訪間館長、平塚市美術館の学芸員の安倍さん、茅ヶ崎市教育委員会の須藤さん、どうも有り難うございました。


                                                  おわり



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