池上七福神めぐり

                                                        2019.1.7

 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で行っている「歩きま専科」の2019年第一回目は、恒例になった七福神めぐり、今年は「隅田川七福神」を巡った。

 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神々であり、また、人に七つの道を示し、人々に七つの徳をそなえさせる福神でもある。
 七福神巡りは、谷中の七福神巡りが最初といわれている。有名になったのは、隅田川の七福神巡り、文化元年(1804)向島百花園が開園されてから始まった。その他各地に七福神巡りが始まり、文化文政の頃からとくに盛んになった。

 隅田川七福神は江戸時代の文化年間に向島百花園に集まる文人たちが、百花園主の福禄寿を中心に始まった6寺社をめぐる七福神めぐりで、全ての寺社が墨田区にある。

1.多聞寺 【毘沙門天】
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2.白鬚神社 【寿老神】
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3.向島百花園 【福禄寿】
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4.長命寺 【弁財天】
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5.弘福寺【布袋尊】
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6.三囲神社 【恵比寿・大黒神】
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 10:00、東武スカイツリーライン堀切駅に、3名が集合、晴天の下、ちょっと寒いがスタート。まずは、堀切駅西口を出てすぐ左手に水門を見て旧綾瀬川を渡り、線路に沿って暫らく行ったところに多聞寺がある。

多 聞 寺 【毘沙門天】
 真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号し、創建年代は不詳だが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたという。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられる。本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天である。 
 毘沙門天はインド名バイスラバンナの音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられ、仏神となったもの。四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大勢の夜叉や羅刹を率いて北方を守護している。その姿は、身に甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手には三叉戟(三つまたの槍)を持ち、忿怒の形相で邪鬼を踏みつけ毘沙門立ちをしている。

 多聞寺からは、細い路地を七福神めぐりの案内表示に従い、墨堤通りに出て暫らく歩き、白鬚橋東詰交差点を過ぎ、少し行った左手に、寿老神を祀る白鬚神社がある。

白 鬚 神 社 【寿老神】
 白鬚神社は、天暦5年(951)に慈覺大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
 墨田区の旧寺島町にあたる「東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上」地区の氏神様として 地元の人々に支えられてきた。
 主祭神・猿田彦大神は、古事記日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されている。人を正しく導くことが叶うとのことから、旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めている。
 隅田川七福神寿老神としても親しまれている。
 寿老人は、長寿延命、そして福録をもたらす神様とされ、面長の頭部と手に持つ杖が特徴。中国の道教の神様で、南極星の化身の南極老人であるとされている。

 白鬚神社を出て、案内矢印に従って行くとすぐ向島百花園に着く。その園内に福禄寿尊堂がある。

向島百花園 【福禄寿】
 向島百花園 は、仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、1804年(文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。
 江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「梅は百花にさきがけて咲く」といって「百花園」の命名者であった絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
 隅田川七福神の発祥の地であり佐原鞠塢が所有していた、ともいわれる「福禄寿」が祭られている。
 短身で白い髭の福禄寿は、中国の神様で、南極老人星の化身。福は幸福、禄は高禄、寿は長寿の三徳を兼ねた神様。背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神である。

 向島百花園を出てふたたび墨堤通りに戻り、向島高速道路入口交差点を過ぎ暫らく歩くと右手にに弁財天を祀る長命寺がある。

長 命 寺 【弁財天】
 長命寺は、創建年代等については不詳であるが、平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 - 1615年)に創建されたともいわれる。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。
 それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。
 隅田川七福神のうち弁財天を安置している。「長命寺桜もち」で知られる。
 弁財天は、仏教の守護神である天部の一つで、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。
 経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。
 弁財天は、音楽神、福徳神、学芸神の性格に加え、戦勝神の性格も持つものがあり、新たに「宝珠」と「鍵」が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている。

 長命寺を出てすぐの右手に布袋尊を祀る弘福寺がある。

弘 福 寺【布袋尊】
 弘福寺は、かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を起源とし、延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺として創建したという。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。
 現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれている。伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建された。
 隅田川七福神のうち、禅宗にちなみ布袋尊が安置されている。
 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け敬われたのである。

 弘福寺を出て暫らく歩くと右手に、恵比寿神大黒神を祀る三囲神社(みめぐりじんじゃ)がある。

三 囲 神 社 【恵比寿・大黒神】
 三囲神社の創建年代は不詳だが、文和年間(1353-1355)近江三井寺の僧源慶が弘法大師債権の由来を持つ荒れた祠を再建したとき、出土した神像の周りを、白狐が現れ三回巡り、消え去ったことから「みめぐり」の名が起こったとされる。
 三井家(三越などの創業家)が江戸に進出して以来、三井家の守護神として崇敬を集め、三井家先祖をまつる顕名霊社や三井邸から移設した三角石鳥居が境内に安置してある。
 隅田川七福神恵比寿神、大国神が祀られている。
 恵比寿神は、大国主命の御子神にあたる事代主命で、大変釣りを好まれたので、烏帽子に狩衣をまとい、右手に釣竿、左手に鯛を抱えて岩に座った姿をしている。
 もともとは海上安全・航海安全の神とされていたが、のちに商売繁盛の神としても広く信仰されるようになった。
 大黒天は、大きな袋と打ち出の小槌で。多くの人々を救済する。出世財福の御利益で知られ、商売繁盛を願う商家はもとより、農家においても田の神として信仰を集めている。

 これで七福神を巡り終え、言問橋東交差点を左に折れ、東京スカイツリーを正面に見て歩き、東京そらまちで昼食を摂り解散。

 昼食後、おまけで東京スカイツリーの展望デッキに上ってみる。幸い晴れていて、地上350mの展望デッキからは、東京の街並みや、遠く房総半島、丹沢山地も見渡せる。富士山はその部分だけ雲がかかりその姿が見えなかったのは残念であった。



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