池上七福神めぐり

                                                        2022.1.6

 生涯大学30期文化AクラスOBの有志で行っている「歩きま専科」の2022年第一回目は、恒例になった七福神めぐり、今年は「谷中七福神」を巡った。

 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神々であり、また、人に七つの道を示し、人々に七つの徳をそなえさせる福神でもある。
 七福神巡りは、谷中の七福神巡りが最初といわれている。有名になったのは、隅田川の七福神巡り、文化元年(1804)向島百花園が開園されてから始まった。その他各地に七福神巡りが始まり、文化文政の頃からとくに盛んになった。

 谷中七福神は、およそ250年前に始まったと言われる江戸最古の七福神。他の七福神には神社も入っているが、谷中七福神は寺院だけである。正月元旦から10日まで、各寺院で七福神絵馬と御朱印用色紙の取り扱いを行なっている。
 全行程約5km、ゆっくり徒歩で回っても2時間。下町情緒溢れる街並みを歩く散策コースである。

1.東覚寺 【福禄寿】
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2.青雲寺 【恵比寿天】
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3.修性院 【布袋尊】
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4.天王寺 【毘沙門天】
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5.長安寺【寿老神】
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6.護国院 【大黒天】

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7.不忍池弁天堂 【弁財天】
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 10:00、JR田端駅に、経堂歴史勉強会で講師をして頂いている宮瀧先生ご夫妻はじめ9名が集合しスタート。駅前から動坂を進んで行き、右に折れたところに福禄寿を祀る東覚寺がある。

第一番  東 覚 寺 【福禄寿】
 東覚寺は室町中期、延徳3年(1491年)に創建された古寺。
 不動前に一対の仁王像が立ち、自分の体の具合の悪いところと同じ場所に赤紙を貼ると病が治ると言われており、「赤紙仁王」(石造金剛力士立像)と親しまれている。
 このお寺の福禄寿は、杖と宝珠を持っていて、金襴の冠をかぶり、両手で経巻を握っている。金襴の冠の福禄寿のまわりには、先代の住職が集めたという福禄寿が置かれている。

 福禄寿とは、幸福、高禄、長寿の三徳を具えて、これを人に与え、方位除災、商売繁昌、延寿福楽等のご利益を現わされる方である。

 東覚寺を出てその先の谷田橋交差点を左へ進み、次の信号を左へ折れ左手に千歳湯がある四つ辻を右折し暫く進む。道灌山通りの西日暮里四丁目交差点を超えると間もなく左手に恵比寿天を祀る青雲寺がある。このころから雪が舞い始めてくる。

第二番  青 雲 寺 【恵比寿天】
 青雲寺は宝歴年間(1751〜64年)、堀田正亮の中興と伝えられている。文化4年(1807年)と第二次世界大戦の大空襲のときと二度焼失し、現在の重層造本堂は、昭和35年(1960年)に竣工再建された。その中に恵比寿天が祀られている。
 花見寺として、四季折々の花を楽しむ人々でにぎわったところでもある。境内には「南総里見八犬伝」の作者滝沢馬琴の筆塚の碑もある。

 恵比須天は「福の神」の代表。鯛を抱いた福々しい相好はなじみ深いものである。恵比須の名は、外国人を意味するエビスの言葉と同一で、本来は異郷から来臨して人々に幸福をもたらすと信じられた神である。漁村では海の神、農村では田の神、山村では山の神、都市では市神、福利を招く神として、商人からも深い信仰が寄せられている。

 青雲寺のすぐ先左手に、タイル絵のユニークな布袋尊の描かれた桜色の堀が目印の布袋尊を祀る修性院がある。

第三番  修 性 院 【布袋尊】
 修性院は天正元年(1573年)、豊島郡田中村(天領/現・練馬区南田中)に運啓山純光寺として創建、寛文3年(1663年)に現在地に移転している。
 江戸時代中期には「日暮の里」と呼ばれ、文人の訪れも多く、宝暦年間(1751年〜1764年)境内に仮山を造り多数の花樹を植栽したため花見寺と呼ばれるようになった。
 こちらの布袋尊は、「日ぐらしの布袋」として知られていて、本堂の中におさめられている。細木細工の漆喰が塗ってあり、口を開いた笑い顔、重量が200kgもあるほど、巨大な布袋尊だ。

 布袋尊は中国唐代の禅僧で名は契此。小柄で太鼓腹、大きな袋を担って各地を放浪し、吉凶を占い、福を施して倦むことがなかったという。又、未来仏たる弥勒菩薩の化身ともいわれ、昔から崇められてきた。

 修性院を出てすぐ左の坂道を上る。この坂道は東京では有名な富士見坂だが、今はわずかに富士山の頭が見えるだけになってしまっている。


 富士見坂を上り切り突き当りを右に進み、日暮里駅前の通りを左折し日暮里駅前に出る。この辺りは江戸時代には、江戸の近郊で、日の暮れるのも忘れるほどの風流な里ということから「日暮の里」(ひぐらしのさと)と呼ばれた。多くの文人墨客が集まる行楽の地だった。
 日暮里駅前から線路に沿い右手に進むとその先左手に毘沙門天を祀る天王寺がある。

第四番  天 王 寺 【毘沙門天】
 天王寺は、かつて感應寺という日蓮宗の寺院だったが、元禄12年(1699年)天台宗に改宗して寛永寺の末寺となり、天保4年(1833年)天王寺と改めた。
 境内には日蓮宗の寺だったころに建てられた丈六の釈迦如来像がある。合掌する釈迦如来で、天王寺大仏として親しまれた。
 元禄13年(1700年)から富くじが興行されると、目黒不動尊湯島天神とともに「江戸の三富」として賑わった。
 毘沙門天は、本堂手前の毘沙門堂に納められている。堂々とした毘沙門天は、比叡山の円乗院から迎えた木像で、伝教大師の作と伝えられている。

 毘沙門天(梵名ベイシラマナ)は、仏教の守護神で多聞天とも呼ばれている。鎧、兜に身を包み左手に持っている宝塔より無量の宝物を衆生に与えて福徳を授け、右手の鉾は邪を払い魔を降す徳を示す。心には勇気決断、くらしには財という、物心ともどもの福を施す神である。

 天王寺を出て、谷中霊園の中を進み、天王寺五重塔跡の先、角に交番のある四つ辻を右折し、暫く進むと突き当りに寿老神を祀る長安寺がある。

第五番  長 安 寺【寿老神】
 長安寺は寛文9年(1669年)老山和尚禅師が開基となり、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712年)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したという。
 このお寺の寿老人は、徳川家康が納めたと言われ、等身大の寄木彫刻。左脇には鹿を従えている。
 墓地内には、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の開校に奔走した明治初期の日本画家・狩野芳崖のお墓もあり、境内には、顕彰碑も立っている。

 寿老人は、中国の神様で、老人星の化身、福禄寿と同体異名であるともいわれ、そのお姿は多様である。富財、子宝、諸病平癒とそのご利益は多岐にわたっているが、なんといっても長寿の神として信仰されている。

 長安寺を出て右へ進み信号を右に曲がりすぐ先の信号を左折する。暫く進み言問通りの谷中六丁目交差点を過ぎると間もなく正面に大黒天を祀る護国院がある。

第六番  護 国 院 【大黒天】
 護國院は、東叡山寛永寺の子院のひとつで、寛永2年(1625年)天海僧正により東叡山が開かれたのと同時に、同僧正の命を受けた開基生順によって東叡山最初の子院として建立された。
 その後、寛永7年(1630)天海僧正により境内に一堂が建立され、そこに古佛師春日の作といわれる釈迦、文珠、普賢の三尊像を安置し本尊としたところから、このお堂は釈迦堂と名づけられ、護國院はこの釈迦堂の別当寺となった。現存する唐様の本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722年)に再建されたもの。

 大黒天は古代インドの闇黒の神で、仏教での戦闘神である。平安以後食を司る台所の神と崇められた。又、日本の神大国主命を大国と混同させ、命のご神徳を合せ、糧食財宝が授かる神として信仰を得た。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと大福利益が得られる。

 護国院を出て、都立上野高校の前を通り、清水坂(暗闇坂)を下り、突き当り信号を左折、森鴎外旧居跡の水月ホテル前を通ると間もなく右手に不忍池が見え、そこに浮かぶ弁天島に弁財天を祀る不忍池弁天堂がある。この頃には雪も本降りになってきた。

第七番  寛永寺 不忍池弁天堂 【弁財天】
 弁天堂は、上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、寛永寺開山の天僧正海が寛永年間(1624〜45年)に竹生島宝厳寺弁財天を勧請して建立した。
 島は常陸下館藩主水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。
 弁天堂が御本尊とする弁財天は、8本の腕を持ち、それぞれの手に煩悩を破壊する道具(宝棒・宝刀・宝弓など)を持った「八臂辨財天」である。

 弁財天は、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神である。

 これで七福神を巡り終え、上野公園内にある上野精養軒で昼食を摂り、上野駅にて解散。

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