山手線駅発
甲州 武田信玄ゆかりの史跡めぐり

No.1


 小林祐一氏著の「山手線29駅発 江戸・東京歴史探訪ウォーキング」(メイツ出版)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、山手線の駅から、江戸の歴史を伝える史跡や古刹、神社などを訪ねながら散策してみることにした。

 第1回  新宿駅〜花園神社〜成覚寺〜太宗寺〜新宿歴史博物館             H27年2月26日

 10:00、新宿駅東口アルタ前広場に、生憎の雨模様だが8名が集合、広場にある史跡「みんなの泉」を見て、新宿通りを横切り、明治通りに面してある「花園神社」を参拝する。

「みんなの泉」
 東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもので、現在では世界に3つしかない貴重なものである。赤大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要な交通機関であった馬が良く利用していた。当初は有楽町の旧東京市役所前に設置されていたが、昭和32年に淀橋浄水場(現新宿副都心)の敷地内に置かれ、昭和39年の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転、その際、「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称された。

「花園神社」
 花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていた。徳川氏が武蔵の国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされている。
 この場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうで、この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされている。
 本殿には、倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神が祀られている。毎年11月の酉の市では大変な賑わいを見せている。 

 花園神社を参拝した後、靖国通りを市ヶ谷方面に歩き、新宿二丁目北交差点を過ぎた右手に、成覚寺とそれに並んで正受院がある。

「成覚寺」
 文禄3年(1594年)の創建と伝わる。江戸時代には、岡場所としても繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺であった。奉公途中に死んだ飯盛女は身につけていたものを剥ぎ取られて俵に詰められ、投げ込むように葬られたという。
 境内には共同墓地に葬られた飯盛女たちの供養碑である「子供合埋碑」、玉川上水で心中した男女らを供養する「旭地蔵」などの文化財が残されている。旭地蔵の隣には、江戸中期の戯作者・恋川春町の墓もある。
子供合埋碑 旭地蔵と恋川春町の墓

正受院」
 文禄3年(1594年)、正受乘蓮和尚を開山として創建される。
 毎年2月8日には、針仕事に用いた針への労いと、同時に裁縫の腕の上達を祈願する儀式である針供養大法要が行われる。

 境内に入ってすぐ右手のお堂に、奪衣婆像が安置されている。奪衣婆はこの世とあの世の境を流れる三途の川のほとりにいる老女で、死者の衣服を剥ぎ取ることからこの名がある。
 そんな奪衣婆が、ここでは綿帽子をかぶった姿から、「綿のおばば」と呼ばれ、咳止めや子どもの虫封じに霊験あらたかと信仰され、親しまれている。

 正受院を出て、新宿一丁目北交差点を右に曲がり、新宿通りに出る少し手前を右に入ったところに太宗寺がある。

「太宗寺」
霞関山・本覚院・太宗寺は浄土宗の寺院で、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられている。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一体を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くことになった。 これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺である。
 元禄4年(1691年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれた。

 境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番がある。正徳2年(1712年)に造られた銅製の地蔵で、像高は267pある。
 江戸六地蔵はここ甲州街道新宿のほかは、東海道品川の品川寺、中山道巣鴨の真性寺、日光街道中山谷の東禅寺、千葉街道深川の永代寺と水戸街道深川の霊厳寺の5ヶ所。永代寺は廃寺となり、地蔵は現存しない。

 また、境内の閻魔堂には、閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきた。現在も、毎年7月15日・16日の縁日に御開扉されている。
 他に新宿山手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされる「切支丹灯篭」などがある。
内藤正勝の墓(内藤家墓所) 塩かけ地蔵 切支丹灯篭

 太宗寺を参拝後、新宿歴史博物館へ向かう。新宿通りを四谷方面に歩き、四谷三丁目交差点を過ぎ、津之坂入口交差点の先を左に折れ250mほど進むと右手に新宿区立「新宿歴史博物館」がある。

「新宿歴史博物館」
 新宿区の郷土資料を扱う博物館で、1989年に開館した区立の博物館である。
 地上3階、地下1階の構造で、1階部分の入口付近には1913年(大正2年)の開通当時から1991年(平成3年)まで使われていた四谷見附橋の高欄が展示されている。
 常設展示室・企画展示室共に地下1階にあり、常設では5つのコーナーに分けて、旧石器時代から昭和時代初期までにおける展示が行われている。そこでは、内藤新宿の復元模型、江戸時代の商家、昭和初期の文化住宅の復元家屋や、都電11系統(新宿駅前-月島通八丁目)・12系統(新宿駅前-両国駅)を走っていた5000形のレプリカなども展示されている。
 休憩所では、小田急ロマンスカー3100型NSEのシートや運転台などの部品などが保存されており、座ることも可能である。
 企画展示は行われていなかった。
江戸時代の商家
内藤新宿の復元模型 都電(5000形)のレプリカ

 新宿歴史博物館を見学したのち、四谷三丁目近くで昼食、この後、新宿御苑と天龍寺へ行く予定であったが、雨も降っていることでもありパスすることとし、地下鉄で新宿駅まで行き解散する。



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