大山道を歩く

No.1


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りすることになった。
  参考資料:八木 牧夫 (著)「ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道 日光道中二十一次」
         内田晃 (著)「40代からの街道歩き―日光街道編―」

 日光街道は江戸時代に徳川幕府(江戸幕府)の政策として整備された五街道のひとつで、徳川家康霊廟久能山から日光東照宮に移し(1617年)祀ったことから、寛永13年(1636)将軍家の参詣道として宇都宮までの奥州街道を重複し日光東照宮へ至る街道として確立された。
 日本橋から鉢石・日光東照宮まで21宿140kmの道中である。



第1回 江戸日本橋〜浅草橋〜浅草寺雷門前〜小塚原刑場跡〜素盞雄神社〜千住大橋〜千住宿本陣跡〜北千住駅

H31年2月12日   

 10:00、日本橋北詰・日本国道路元標(レプリカ)前に、7名が集合、日光東照宮に向け「日光道中」のスタートをする。

「日本橋」
 日本橋が初めて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていた。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。
 現在の日本橋は、石造二連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成したもので、橋の柱にある日本橋の文字は、第十五代将軍徳川慶喜の筆によるものである。
 橋の中央、センターライン上にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に昭和47年に柱からプレートに変更された。

日本橋の北西詰にある「元標の広場」の日本国道路元標(レプリカ)と東京市道路元標

 日本橋北詰交差点の次の通りを右に入った少し先の左手に、三浦按針屋敷跡碑がある。

「三浦按針屋敷跡碑」
 三浦按針(ウィリアム・アダムス)はイギリス人航海士で、オランダ船リーフデ号で東洋を目指し、慶長5 年(1600)豊後国(大分県)臼杵に漂着した。
 徳川家康に招かれた按針は、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を指導した功績で旗本に取り立てられ、相模国(神奈川県)三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられた。
 姓の三浦は領地に由来し、按針は水先案内人である。屋敷地は現在の日本橋室町1 丁目辺りで、昭和初期まで「按針町」と呼ばれた。今でも「按針通り」が残り、「史蹟三浦按針屋敷跡」の碑がある。

 中央通りに戻り、三越前を通り、室町三丁目南交差点を右折し旧日光街道本通りに入る。すぐ右手奥に福徳神社が見える。


「福徳神社」

 福徳神社の創建年代は不詳ながら、貞観年間(清和夫皇・859〜876年)には鎮座していたといい、福徳村と称されていた村の村名から社名を福徳神社と称したといい、源義家・太田道灌など武将からの尊崇も篤く、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたという。明治7年村社に列格した。
 五穀豊穣のほか、宝くじ当選祈願のご利益がある神社として知られている。

 旧日光街道本通りを暫らく進み、一旦日光街道から外れ、人形町通りを左折、江戸通り小伝馬町交差点を越えると、その先左手に、江戸伝馬町牢屋敷跡(現十思公園)大安楽寺がある。


「江戸伝馬町牢屋敷跡(現十思公園)」

 牢屋敷はもとは常盤橋門外にあったが、延宝5年(1677)にこの地へ移され、明治8年(1875)に市ヶ谷刑務所ができるまで約200年にわたって続いた。
 安政の大獄で牢送りとなった吉田松陰はこの地で処刑されて、園内には吉田松陰終焉之地碑吉田松陰顕彰碑辞世の碑など吉田松陰に関する碑が立っている。

 また、園内には江戸時代に時を知らせた鐘が石町(現在の日本橋室町)から移されている。「石町時の鐘」は江戸で最古のものであるが、火災などで破損し,現在の鐘は宝永8年(1711)に改鋳されたものである。

「大安楽寺」
 大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年(1882)に創建したという。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したという。
 境内には刑死者を供養する「延命地蔵尊」がある。

 旧日光街道本通りに戻りしばらく進むみ、横山町問屋街を通り抜けると浅草橋交差点に出る。浅草橋を渡った左手に、浅草見附跡の石碑が立っている。


「浅草見附跡」
 神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門浅草見附と呼ばれ、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要であった。
 明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ、二万人以上の犠牲者を出した。

 JR総武本線のガードをくぐり、蔵前一丁目交差点左側手前にある、伊能忠敬の師匠天文方高橋至時が天文観測を行ったという天文台跡の前を通り、蔵前一丁目交差点の先のY字路を右に進む。

 諏訪大社(上社)の分霊を勧請した諏訪神社の前を通るとその先に、創業享和元年(1801)どじょう料理の老舗「駒形どぜう」がある。文化3年(1806)大火に遭い、それまでの「どじやう」の四文字では縁起が悪いと「どぜう」の差文字に改称したという。ここで昼食を摂る。

 昼食後、駒形橋西詰交差点角にある駒形堂を見て左手に進むと正面が浅草寺雷門だ。


「駒形堂」
 駒形堂は、浅草寺御本尊聖観世音菩薩が、およそ1400年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向かった。
 このお堂の御本尊は馬頭観音で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守りしている。
 現在のお堂は平成15年に再建されたものである。


 雷門前は相変わらず大勢の人で賑わっている。浅草寺には寄らず、門前を右に進み、東橋交差点を左折し、Y字路を右に進む。
 言問橋西交差点を左斜めに入り、吉野通りを進む。一つ目の信号を左に入り、二つ目の道を左に入った辺りが旧猿若町で、江戸猿若町市村座跡の碑が立っている。
 天保12年(1841)老中水野忠邦天保の改革により、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められた。
 猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していた。江戸歌舞伎興隆の場となったこの地に昭和39年(1964)に跡碑が建てられた。

 吉野通りに戻りしばらく進み、東浅草交番前交差点を過ぎ、次の路地を左に入った先右手に春慶院がある。


「春慶院」
 創建の時期は明らかではないが、境内墓地に吉原の花魁2代目高尾の墓があることで知られている。
 高尾太夫は吉原の代表的名妓で、数々の伝説が残されており、墓は仙台候の内命により建てられたといわれる。戦災などにより少し傷んではいるが、四面塔の墓石には「寒風にもろくもくつる紅葉かな」の遺詠が刻まれている。

 春慶院の奥には、江戸六地蔵の一つ、宝永7年(1710)造立の銅造地蔵菩薩坐像がある東禅寺がある。
 江戸六地蔵は、宝永から享保年間にかけて江戸の出入口6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像である。


 再び吉野通りに戻りしばらく進み、小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者が泪の別れをしたといわれる泪橋を渡る。さらに少し進み、南千住駅前の跨線橋を渡ったところが小塚原刑場跡である。


「小塚原刑場跡」
 小塚原刑場は、江戸時代に大和田刑場鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた処刑場で、明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われている。
 現在、小塚原刑場跡地には、小塚原回向院から分院独立した延命寺があり、罪人を供養するために寛保元年(1741)に造立された首切地蔵が安置されている。

 小塚原刑場跡の先に、刑死者を供養した小塚原回向院がある。


「小塚原回向院」
 小塚原回向院は、慶安4年(1651)に新設された小塚原刑場での刑死者を供養するため、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観が常行堂を創建したことに始まる。
 この寺には、文政5年(1822)津軽藩主津軽寧親を襲撃した南部藩出身の相馬大作を処刑して以降、国事犯の処刑場となったため、安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら、毒婦と云われた高橋お伝鼠小僧などの歴史上の有名人物が葬られている。
 また、戦後の代表的な誘拐事件の通称吉展ちゃん事件の犠牲者村越吉展(当時4歳)の供養のために建立された吉展地蔵尊がこの寺の入り口にある。

 回向院を出て暫らく進むと、南千住交差点で国道4号線に合流する。交差点に面して、素盞雄神社がある。


「素盞雄神社(すさのうじんじゃ)」
 延暦14(795)年、修験道の開祖・役小角の高弟で、黒珍という人物が牛頭天王・飛鳥権現が降臨したという奇岩を祀り、当社を創建したと伝えられる。
 牛頭天王・飛鳥権現にはそれぞれ別の社殿が造営・奉斎されていたが、江戸時代の享保3年(1718)、類焼により両社が焼失したため、享保12(1727)年に相殿として二柱を祀る瑞光殿が新たに造営された。
 明治初頭の神仏分離により、祭神を素盞雄大神・飛鳥大神と改められ、社号も素盞雄神社へと改称した。
 社殿の右脇に松尾芭蕉の句碑などが置かれた庭園がある。

 素盞雄神社を出て、千住大橋を渡る。



 橋の北詰に、矢立初めの地の碑奥の細道の説明板芭蕉句碑などが建つ大橋公園がある。また、公園を下った所にある千住大橋下隅田川テラスにも奥の細道の説明版がある。

 元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)松尾芭蕉は、門人曾良を伴い、草庵のあった江戸深川から船に乗り、千住大橋の辺りで降りて、千住の地から奥州、北陸、美濃へと旅立つ。
 全行程約600里(2,400km)、約150日間に及ぶこの旅は、紀行文 奥の細道としてまとめられ、芭蕉の死後の元禄15年(1702)に刊行される。
 矢立初めの地とは、奥の細道に著された「・・・舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 「行春や鳥啼魚の目は泪」 是を矢立の初として行道なをすゝまず。・・・」という一文から来ている。

 この先、旧日光街道は、足立市場前交差点を斜め右に入って行くのであるが、間違えて国道4号を進んでしまい、北千住入口交差点を右折する。
 北千住駅手前の旧日光街道との交差点を左折すると、その左手一帯が千住宿本陣跡である。今は標石があるのみだ。



 今回はここまでとし、北千住駅に出て解散。

第2回に続く      



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