大山道を歩く

No.2


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第2回 足立市場前〜千住宿本陣跡〜千住新橋〜梅島駅前〜島根鷲神社〜水神宮〜火あぶり地蔵尊〜今様草加宿碑〜草加駅

H31年3月26日   

 10:00、京成本線・千住大橋駅前に、5名が集合。前回、千住大橋を渡り、足立市場前交差点から右斜めの旧日光街道に入るべきところ、国道4号線を進んで北千住駅へ行ってしまったので、今回、改めて足立市場前からスタートすることにした。


 足立市場前交差点から旧日光街道に入るとすぐに「日光道中 千住宿」「みぎ 日本橋」「ひだり 草加」と刻まれた道標芭蕉像がある。その少し先に「元やっちゃ場南詰」の案内板がある。神田、駒込、と並ぶ江戸三大青果市場があったところである。

 少し進むと左手に千住歴史プチテラスがある。元地漉紙問屋・横山家から寄贈された土蔵(木骨土蔵造りで天保元年(1830年)の建築)をギャラリーとして活用したもので、「やっちゃ場展」や「千住宿歴史パネル展」などの展示を行っている。


 この向かいに、千住市場問屋配置図説明板があり、これを見ると、数多くの問屋が連なる往時の賑わいがよくわかる。



 この先、墨堤通りとの仲町交差点角に源長寺がある。



「源長寺」

 源長寺は、慶長3年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、慶長15年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋時に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してその法名にちなむ寺号を付して開基としている。

 源長寺を出て、更に進み、信号のある交差点の角に千住高札場跡の標石があり、これと向かい合うように千住の一里塚跡の標石がある。


 千住ほんちょう商店街に入るとすぐ左手に千住宿問屋場跡・貫目改所跡の標石がある。貫目改所は問屋場が扱う荷の重量を検査したところである。


 商店街を更に進むと右手にマンションの工事現場があるが、ここは文豪・森鴎外の父・静男が明治12年(1879)に橘井堂医院を開き、明治25年(1892)まで家族で住んでいた場所で、鴎外も大学卒業から結婚するまで住んでいた。千住の鴎外碑が立っていたが工事中のため足立区が保管し、完成時に戻る予定。。


 森鴎外旧居跡を見て暫らく進み、北千住駅前からの道を越え、宿場町通りに入った一帯が千住宿本陣跡である。


「千住宿」
 千住宿日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿の一つである。
 千住宿は寛永2年(1625)に建設され、当初は千住一から五丁目だったが、交通量増大により万治元年(1658)に掃部宿(かもんじゅく)・河原町・橋戸町が、万治3年に千住大橋南側の小塚原町・中村町が宿場に加えられた。元禄9年(1696)には不足する人馬を周辺の村々から集める助郷制が定められた。
 千住宿は宿場であるとともに流通の町として賑わった。橋戸河岸には荒川や綾瀬川を利用する船が発着し、米穀や野菜、陶器などさまざまな物資が流通した。

 宿場町通りを進むと右手に千住ほんちょう公園があり、千住宿史跡・旧跡案内図千住高札場由来解説版がある。



 この少し先右手に横山家住宅がある。横山家は地漉き紙問屋を営んでいた旧家で、江戸時代には、公用の旅行者に対する便宜を図って課役(伝馬役)を負担したことから、伝馬屋敷とも呼ばれた。
 安政2年(1855)に建てられた、木造二階建て細格子造りの住宅。現在の建物は昭和11年(1936)に改修されてはいるが、ほぼ建築当初の姿を保っている。


 この向かい側には千住絵馬屋吉田家がある。吉田家は江戸時代中期から絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋として8代にわたって続いている。特に絵馬は「千住絵馬」として知られてきた長い歴史がある。縁取りした経木に胡粉と泥絵具で描く江戸時代からの伝統的な手法は今も守られている。


 横山家住宅を過ぎた先の交差点角に「北へ 旧日光道中」「東へ 旧水戸佐倉道」と彫られた旧水戸街道の追分道標が立っている。



 その先右手には名倉医院がある。江戸時代から続く整形外科医院で、関東一円で「骨つぎといえば名倉」といわれ駕籠や大八車で運ばれる骨折患者が後を絶たなかったという。



 名倉医院の手前、角に「左 旧日光道中」「右 旧下妻道」と彫られた道標が建つ三叉路を左に折れ、荒川(放水路)に架かる千住新橋を渡り、首都高を頭上に見て左に進む。


 川田橋交差点を右折して旧日光街道に入り、暫らく進むと左手に石不動尊がある。


「石不動尊」
 小堂のなかの不動尊は石製坐像で、台座に耳不動と記されているが、別名「耳の不動さま」ともよばれて、耳を病む人の強い信仰を受けている。
 耳を病む人は、竹筒に酒を入れて拝み、その酒を耳につけると治るという。また治ると御札を竹筒に酒を入れて奉納する。絵馬にも耳の画や不動尊の剣を記したり、幟も奉納され、昔はもっと数が多かったという。
 ここに昭和40年(1965)に再建された、「子育弥彦尊像、是より二丁行く」という道しるべがある。咳にご利益のある明王院(赤不動)への道標である。

 石不動尊を過ぎ暫らく進み、梅島駅前を通り更に進み、環七通りを越えた少し先左手角に、「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標柱がある。


 将軍家御成橋 御成道松並木跡の標柱の立つところを左に折れ少し進むと国土安穏寺がある。


「国土安穏寺」
 国土安穏寺は、日通聖人が開山、千葉太郎満胤が開基となり、応永17年(1410)に創建したという。
将軍徳川秀忠・家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となり「葵の紋」の使用が許された。 将軍専用の御成門が建てられ御成り道が造られた。
 本堂の左には「家光公御手植之松」がある。

 旧日光街道に戻り少し進むと左手に島根鷲神社がある。


「島根鷲神社」
 鷲神社は、社伝によると文保2年(1318)の中興である。古代の海岸線とされる所が南にあり、島の根の様にでた当地に祭神が船で到着したことから浮島明神とも呼ばれたと言う。
 島根村は徳川将軍家の鷹狩場であったことから、歴代将軍の参詣があった。3代将軍家光のお手植えという松があったが、天保年間(1830〜1845)惜しくも枯れてしまったと伝えられえる。また、8代将軍吉宗は、当社にあった寺子屋で、手習い教本に幕府の諸法度集が用いられているのを見て、祠官に褒美を賜ったという。享保6年(1721)吉宗公が巡遊の際に腰掛けたという将軍石が社殿脇にある。

 島根鷲神社を出て、次の信号を左折し街道よりそれて、俳人・小林一茶ゆかりの寺・炎天寺に寄る。


「炎天寺」

 幡勝山成就院炎天寺は天嘉4年(1056)炎天続きの旧暦6月、奥州の安倍一族の反乱を鎮定に従く源頼義八幡太郎義家父子の率いる軍勢が野武士と激しく戦いきわめて苦戦となったが、京の岩清水の八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた。
 そこで寺の隣りに八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺名を源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、気候が炎天続きだったので炎天寺と改めたと伝えられる源氏ゆかりの寺であり、また江戸後期の俳句の俳人小林一茶がいくつかの名句を残している。
 やせ蛙負けるな一茶是にあり(文化13年(1816)4月)
 蝉鳴くや六月村の炎天寺(文化13年9月)

 炎天寺を出て旧日光街道の増田橋交差点のちょっと手前に戻り、路地を入ったところに、傍らに小社がある成田道道標がある。増田橋交差点角にある増田橋跡の石標碑を見て直進する。


 暫らく進み、渕江小学校脇の小道を右に入る。この道は千葉県流山市へ続いた、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道だ。渕江小の先左手に保木間氷川神社がある。


「保木間氷川神社」
 神社前を東西に通る流山道が戦国時代以前に成立しており、慶長年間(1596-1615年)以前に隣にある宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられている。
 当地に千葉氏の陣屋跡があり、妙見社が祀られ、後に天神を祀る菅原神社となり、明治初年(1868)保木間を含めた竹塚・伊興の鎮守伊興氷川神社に合祀され、明治5年(1872)、伊興氷川神社から独立し、村社に列し保木間氷川神社と改称した。

 旧街道に戻り、渕江小を過ぎた左手奥に十三仏堂がある。


「十三仏堂」
 十三仏堂は、旧保木間村の三ノ輪厨子によって守られてきたもので、建造年月は詳らかではない。新編武蔵風土記稿には「庵、行基ノ作レル虚空蔵ノ木像ヲ安ズ」とある。
 十三仏とは、初七日から33回忌までの13回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿シュク・大日・虚空蔵を指す。
 堂内には、この十三仏のうち、弥勒が欠け、大日が金剛界と胎動界の二体となっている。
 十三仏は、高さ60cm前後の木像で、全部同一の手法で作られている。作者や年代の刻名はない。また中央に厨子にはいった飯岡権現像があり、この像には明治6年、高村東雲作の銘がある。
 三ノ輪厨子13戸の人々によって、これだけの仏を守護し、今なお、講中による行事が行われていることは大変珍しく、民族資料として貴重な存在である。(足立区教育委員会)」

 また暫らく旧街道を進み、竹の塚中東交差点を過ぎた右手に法華寺がある。


「法華寺」
 天保6年(1835)の起立。開山住禅院日城。堀の内・勇師通師法縁。安政3年(1856)の暴風雨、大津波で大破したが、元治元年(1864)に中興15世玉真院日琢が小塚原法華庵として再建。江戸時代に小塚原刑場の死刑囚の菩提を弔う寺であった。
 大正12年、一八世知良院日恭の代、市電設置により赤羽岩淵に移転し、15年に陸軍砲兵工廠設立のため現在地に移転した。昭和22年に法華庵を現寺号に改称した。

 法華寺をでて国道4号線を越えた先左手に保木間水神宮がある。創建は詳らかではないが、北面の武士だった小宮某が当地に隠棲、釣りをしている際に出て来た蛇を殺したものの毒により亡くなったことから、村民がこの蛇を祀ったという。


 この先信号を左折、毛長川に架かる水神橋を渡り、埼玉県に入る。


 暫らく進むと右手に瀬崎浅間神社がある。


「瀬崎浅間神社」
 神社創建年次は明らかではないが、「新編武蔵風土記稿」によると、「浅間社、村の産神とす。善福寺持」とある。別当の善福寺は、寺伝によると、「寛永4年(1627)の開基にして、この浅間神社は、他の場所に祭られていたのを、明暦年間(1655〜1657)に、現在地に移建した」と伝えられている。
 現本殿は、天保13年(1842)に再建されたことが本殿内にある御宝珠銘からわかる。
 御祭神は霊峰富士山の御神霊木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)で、瀬崎の産土神として、また、鎮守として安産・子育て・癪に霊験あらたかであり、他に、厄除け・除災招福が心願成就すると言われている。

 またしばらく街道を進むと、吉町五交差点の角に火あぶり地蔵尊がある。


「火あぶり地蔵尊」
 伝説によると、富豪の家で働く孝行娘が母の看病のため休暇を願い出たが、願いは叶わず、そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり家に帰れると思いこみ放火をしてしまう。幸いボヤで済むが、娘は火あぶりにされ、哀れに感じた村人が地蔵尊を安置したという。

 吉町五交差点を過ぎ、暫らく進むと今様草加宿碑が立つY字路にでる。



 Y字路を左に入って行くと、左手に草加市役所があり、その角に浅古家の地蔵堂がある。


「地蔵堂」
 別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたという。
 草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は江戸店を出し、全国二位の質店であった。

 草加市役所の先、草加市役所(北)交差点の角に、村民源右衛門が開基、専誉順広(元禄14年1701年寂)が開山となり創建したという回向院がある。
 また、この交差点の角に天正年間(1573〜92)大宮氷川神社を勧請し、氷川社と称し南草加村の鎮守とした草加神社社標が立っている。


 この交差点を越え進み、草加駅からの道との交差点手前右の道路際に、正面に「日光街道」側面に「葛西道」と刻まれた道標が立っている。そして、交差点の角には、大正8年に公布された道路法施行令で設置が義務づけられたため埼玉県が設置したものだと思われる「草加町道路元標」「埼玉懸」と刻まれた道路元標が立っている。

 今回の日光街道歩きはここまでとし、草加駅に出て解散。

第3回に続く      



                      日光街道を歩く 目次 

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