元荒川に架かる大沢橋(大橋)を渡ると、本陣や脇本陣の置かれていた大沢町へと入る。越ヶ谷宿の中心は大沢町にあったのだが、残念ながらここに宿場時代の面影は留めていない。
「越ヶ谷宿」
越ヶ谷宿は慶長7年(1602)から奥州街道に伝馬制が敷かれると、早々に宿場となった。江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(武蔵国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であった。
天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられ、宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であったが、明治期の2度の大火で大半を焼失し当時の面影はほとんど見られない。
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