大山道を歩く

No.3


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第3回 草加駅前〜東福寺〜草加市立歴史民俗資料館〜草加せんべい発祥の地〜草加松原〜蒲生の一里塚〜清蔵院〜照蓮院〜中町浅間神社〜大沢香取神社〜北越谷駅

H31年4月16日   

 10:00、草加駅前に6名が集合、晴天の下、草加駅東口ロータリーを進み、二つ目の交差点を左折し旧日光街道に入るとすぐ右手に八幡神社がある。

「八幡神社」
 草加宿下三町の鎮守。獅子頭一対は市の有形文化財に指定されている。この雌雄一対の獅子頭は、高さ八十三センチ、幅八十センチ、奥行八十七センチもあり舞に使われる獅子頭と比較すると、大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として神幸に供奉したものである。
 しかし、現在では山車に乗せて曳いたという以外に伝承は残っていない。このような大型の獅子頭は、遺構も少なく貴重なものである。

 八幡神社を過ぎると、草加宿の典型的な町屋景観を今に伝える藤代家がある。街道に面して木造二階建ての住宅店舗で、奥には住居に組み込まれた土蔵造りの内蔵と明治初期の建築と伝わる外蔵が並んでいる。


 この少し先に、通りを挟んで大川本陣跡清水本陣跡の石碑が向かい合っている。

「草加宿」
 千住宿 -越ヶ谷宿間には宿場が無かったが、宿篠葉村の大川図書が中心となり新道開削が行われ、茅原を開き沼を埋め立てて、千住から越ヶ谷間をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。これが草加宿の基となったとされる。
 このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、寛永7年(1630年)に草加千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ヶ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。
 最初は大川家が、次に清水家本陣を務めた。開宿当初、家数は84軒、旅籠5〜6軒と小規模であったが、徐々に人口が増え、天保14年(1843)には戸数723戸、旅籠67軒となる。宇都宮、古河などの城下町を除くと千住、越谷、幸手に次ぐ宿場に成長する。

 本陣跡の先左手に、縁結びの神も祀る小さな社の氏神、氷川神社がある。



 氷川神社を過ぎ少し行くと右手に、茶屋風造りの休憩所、おせん茶屋公園がある。


 おせん茶屋公園の先で、街道を外れ左に折れ、大川図書の菩提寺である東福寺に寄る。

「東福寺」
 東福寺は正式には松寿山不動院東福寺といい、慶長11年(1606)に草加宿の祖・大川図書によって創建され、僧賢宥(けんう)が開山したといわれている。
 本堂は明治年間にわら葺から瓦葺に変わり、平成5年(1993)には大規模な改修が行われた。境内の墓地には大川図書の墓があり、山門、本堂外陣欄間、鐘楼は市指定文化財で、「草加八景」の1つでもある。

 東福寺をでて、草加駅方向に少し戻ったところに草加市立歴史民俗資料館がある。建物は大正15年(1926)に建てられた、県内初の鉄筋コンクリート造りの旧草加小学校西校舎を改造したもの。
 古文書、板碑、農具神楽面などの民俗資料や明治天皇行在所になった大川邸復元模型が展示されている。


 旧日光街道に戻り、「元祖草加せんべい」というせんべい屋さんで焼きたてのせんべいを買い、食べながら歩いて行くと左手に、安政年間(1854〜1860)の建築とされる旧久野家の店舗を再利用した無料の休憩所草加宿神明庵がある。


 そして神明庵の先に神明宮がある。

「神明宮」
 与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に屋敷神として創建されたご神体を、正徳3年(1713)に現在地へ遷され、草加宿の総鎮守となったという。
 現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたもの。

 神明宮を過ぎると県道49号にぶつかる。交差点の右側には、松尾芭蕉とともに奥の細道を旅した門弟・河合曽良の像が立っている。
 交差点の左側は、「草加せんべい発祥の地」と刻まれた大きな石碑が立つおせん公園である。草加せんべいの始まりとしては、おせん物語がよく知られている。
 おせん草加宿で茶屋を営む女店主で、「売れ残った団子はつぶして天日に干して焼くといい」と教えられ、焼き餅として売り出すと大評判となり、草加宿の名物になったという。


 交差点を渡った先には、綾瀬川を行き来する舟の荷物を積み卸しした札場河岸の跡地である札場河岸公園がある。園内には、高さ12mの埼玉県産のスギとヒノキで造られた五角形の望楼草加宿芭蕉庵松尾芭蕉像高浜虚子の句碑などがある。


 札場河岸公園から北へ約1.5km続く松並木が国指定名勝地で、日本の道百選にもなっている草加松原だ。この松並木は天和3年(1683)関東郡代伊那半右衛門綾瀬川を改修した際に植栽したもので、現在634本ある松の中には、江戸時代から残る古木が60本程度存在している。



 松原遊歩道には、奥の細道にちなんだ2つの太鼓橋「矢立橋」、「百代橋」、奥の細道碑名勝碑日本の道百選碑水原秋桜子句碑などがある。


 草加松原を後にして、綾瀬川に沿って歩く。左手にある金明愛宕神社を過ぎ、蒲生大橋を渡ると橋のたもとに蒲生の一里塚がある。


「蒲生の一里塚」
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、蒲生の一里塚は綾瀬川と出羽堀が合流する蒲生愛宕町にあり、高さ2メートル、東西5.7メートル、東北7.8メートルの長方形をなしている。文化年間(1804〜1818)に編さんされた「五街道分間延絵図」には一里塚が東西に描かれているが、現在は東側のみが残されている。この一里塚が県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚である。

 蒲生大橋より川下に少し行ったところに埼玉東部と江戸を結んだ綾瀬川舟運の発着場、藤助河岸跡がある。


「藤助河岸」
 江戸時代中期、旧日光街道と綾瀬川が交差するという地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つで、江戸時代は年貢米、明治以降は粕壁、越谷、岩槻などの特産物が荷車で運ばれ、船に積み替え、東京に運ばれた。
 明治の近代化以降、鉄道の普及などで河岸場がつぎつぎと廃止されるなかで、藤助河岸は繁栄を続けた。しかし、大正9年、東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、事実上昭和初期に廃止された。
 現在、藤助河岸は荷の積み降ろし小屋の一部が復元され、唯一当時の面影を伝えるものとして保存されている。

 ここからは綾瀬川と分かれ、昔は旅人をもてなす茶屋が並んでたという蒲生茶屋通りを進んだところ右手に、享保13年(1728)建立の、不動明王像がある。台座には「是より大さがミ道」と刻まれ、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。隣には正徳3年(1713)建立の笠付青面金剛像庚申塔が並んでいる。

 その先左手には、宝暦7年(1757)日光道中の大改修が行われ、これを記念して建立された「ぎょうだいさま」がある。旅人がわらじを供え、旅の安全を祈願したという。


 そしてその先に江戸初期に建てられた貴重な山門のある清蔵院がある。


「清蔵院」
 天文3年(1534)に開かれた真言宗智山派の寺院で十一面観音像を本尊としている。寛永15年(1638)建立の山門の欄間には、名工・左甚五郎が刻んだとされる龍の彫刻があり、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったと伝わっている。
 越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。

 清蔵院を出ると県道49号に合流し暫らく進む。南越谷病院交差点のすぐ先左手に、明治天皇が明治9年(1876)奥州巡幸の途次に田植えを上覧した、「明治天皇田植御覧之處碑」が立っている。並んで公爵大山巌書「忠勇碑」、「用水完成記念碑」などが立っている。


 武蔵野線の越谷ガードをくぐり暫らく進む。瓦曽根ロータリーの左手に、照蓮院がある。その手前の駐車場奥、金網で囲われた石碑・石塔の中に「窮民救済の碑」がある。
 瓦曽根村の名主中村彦左衛門は、天明年間(1781〜89)の凶作時に御貸付所の貯金全部を払い出し窮民に与えて飢餓を救ったのだという。




「照蓮院」
 照蓮院の創建年代は不詳だが、天正19年(1591)徳川家康より寺領5石の御朱印状を拝領したという。
 武田氏の家臣秋山信藤の子、長慶は天正10年(1582)武田氏滅亡の際、勝頼の遺児幼君千徳丸を伴って、瓦曽根に潜居した。千徳丸はまもなく早世し、それを悲しんで長慶照蓮院の住職となり、その菩提を弔ったという。
 寛永14年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた、千徳丸墓石供養塔と言われる五輪塔が造立された。

 瓦曽根ロータリーからY字路を左(県道52号)に進み、市役所前中央通りを越えた少し先左手奥に新町八幡神社がある。


「新町八幡神社」
 新町八幡神社は、文和2年(1353)銘の板碑があることから、文和2年(1353)の創建とされている。越ケ谷宿は、日光街道三番目の宿場として慶長7年(1602)ごろに成立した。宿内は本町・新町・中町の三つに区画され、それぞれに名主が置かれた。新町八幡神社はこの三町のうち、新町の鎮守とされている。

 新町八幡神社を出て暫らく進んだ左側に、奥まで黒塀が続く路地がある。この路地を入り、蔵がある所で右折すると、黒塀内に建つマンションの前にタブの巨木が聳えているのが見える。途中に「たぶの木の家」と書かれた表札が掲げられている黒門もある。

 この有瀧家タブノキは、樹回りは3.7m、樹高は17m、枝張り(径)は10mである。幹の1.5mのところに寄生菌サルノコシカケの寄生跡があったが、昭和59年に除去し消毒したので、あと何百年かはその寿命を保つとみられている。その樹齢は400年以上と推定されている。

 たぶの木の家を過ぎ、広い通りに出た角に、境内に樹齢600年といわれるケヤキの大木のある浅間神社がある。


 浅間神社から街道に戻った交差点のすぐ先左手の脇本陣四ツ目屋跡木下半助商店がある。
 木下半助商店は、明治時代後期から大正時代にかけて建築された道具店で、表通りに面する店舗のほか、土蔵、石蔵、主屋、稲荷社が現存し、明治期の越谷における商店の面影をよく伝えている。


 木下半助商店の向かいには小泉家(塗師屋)がある。小泉家は先祖が漆を扱っていたことから、地元では塗師市と呼ばれる。越ヶ谷宿で現存する古い建物では唯一、店舗と蔵が横に並ぶ。
 蔵は明治8年(1875)築で、明治32年(1899)の大火にも耐えた。店舗は大火後の再建である。


 小泉家の隣は蔵造りの店舗で日用雑貨を販売する鍛冶忠商店だが、現在メンテナンス中だ。

 宿場の歴史を語る建物が続く街道を歩いて行くと右手に市神社(市神神明社)がある。嘉吉2年(1443)勧請、正徳3年(1713)創建。1592〜96の頃より毎月27日に市を開いていて、この市の神として創建されたものと思われる。元は元荒川と旧日光街道の交差する自然堤防にあったが平成8年道路拡幅工事に伴い今の場所に移転した。


 元荒川に架かる大沢橋(大橋)を渡ると、本陣脇本陣の置かれていた大沢町へと入る。越ヶ谷宿の中心は大沢町にあったのだが、残念ながらここに宿場時代の面影は留めていない。

「越ヶ谷宿」
 越ヶ谷宿は慶長7年(1602)から奥州街道に伝馬制が敷かれると、早々に宿場となった。江戸・日本橋から数えて3番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(武蔵国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であった。
 天保14年(1843年)の日光道中宿村大概帳によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられ、宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であったが、明治期の2度の大火で大半を焼失し当時の面影はほとんど見られない。

 本陣脇本陣跡を示す標識も無いが、大沢橋から少し先左手の、現在の「きどころパン」のところが、福井家が務めた大松本陣(福井本陣)跡、その先右手の「深野造園」のところが、深野彦右衛門が務めた玉屋脇本陣(深野脇本陣)跡、その先左手の、現在の「三枡屋」の辺りが、山崎次兵衛が務めた虎谷脇本陣(山崎脇本陣)跡であろうという。そしてその先右手の現在の「若松屋印刷」のところが江沢太郎兵衛が務めた問屋場跡という。


 本陣や脇本陣があった辺りを過ぎた左手に照光院がある。


 照光院の先右手に香取神社がある。


「香取神社」
 香取神社の創立年代は不祥だが、応永年間(1394〜1428)と推定され、五穀豊穣及日常生活に関する一切のことをお護りになる神で、古くから招福除災の鎮守神と土地の人により深く信仰されている。
 現在の本殿は、明治元年(1868)の再建だが、四面の外壁に彫刻が施された奥殿は、その棟札から慶応2年(1866)に再建されたものである。
 彫物師は、浅草山谷町長谷川竹次郎で、高砂の翁、大黒天、龍などの浮彫がそれぞれ奉納者の名とともに刻まれている。

 香取神社参拝後、今回は、すぐ先の北越谷駅入口までとし、北越谷駅へ出て解散。

第4回に続く      



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