大山道を歩く

No.4


 世田谷区生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「日光街道」を歩き、日光東照宮をお詣りを目指します。

第4回 北越谷駅前〜宮内庁埼玉鴨場〜庚申塔〜下間久里香取神社〜秋田炉跡〜建御雷神社〜備後の一里塚跡〜善巧寺〜八坂神社〜関根本陣跡〜春日部駅

令和元年5月7日   

 10:00、北越谷駅前に、6名が集合、粕壁宿に向けスタート。北越谷駅東口を出てすぐの交差点を左折し旧日光街道に入る。
 暫らく歩き、東武スカイツリーラインの高架をくぐった先左手に古奥州道道標がある。青面金剛庚申塔は道標を兼ね「右じおんじ のじま道」と刻まれている。


 暫らく進んだ左手奥に宮内庁埼玉鴨場がある。

「宮内庁埼玉鴨場」
 鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替えとして明治37年(1904)皇室用の遊猟場として建設された。約117,000uの敷地の中に約12,000uの鴨池がある。
 訓練されたアヒルを使い、野生の鴨を水路に追い込んで、叉手網(さであみ)で捕まえる古来の鴨猟が守られ、国内外の賓客に披露される。

 宮内庁埼玉鴨場の少し先左手奥に大林寺がある。


「大林寺」

 曹洞宗の寺院で、享保5年の創建。門前の大乗妙典一千部供養塔は元文5年(1740)の建立。境内の出世大黒天は嘉永元年(1848)の造立。

 大林寺を出て少し歩いた左手に、大林村の鎮守である香取神社がある。境内には青面金剛像庚申塔猿田彦大神庚申塔猿田毘古大神庚申塔等がある。
 ちなみに猿田彦大神は、天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。


 暫らく歩き、東武スカイツリーラインの踏切の少し手前に、祠の中に宝永7年(1710)建立の青面金剛像庚申塔が安置されている庚申塔がある。また、踏切を越えた先には、馬頭観音像地蔵尊等が集められている石仏石塔群がある。


そしてその先右手、墓地の隅に青面金剛庚申塔や慶応4年(1868)建立の青面金剛像庚申塔等がある。


 越谷春日部バイパス高架をくぐり、街道沿いにある地蔵堂阿弥陀堂を見ながら暫らく進むと、右手に下間久里香取神社がある。



「下間久里香取神社」
 下間久里村の鎮守で、毎年7月に行われる例大祭には、文禄3年(1594)に始まったと伝わる「下間久里の獅子舞」が奉納される。
 下間久里の獅子舞は、太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞うもので、雨下無双角兵衛流と呼ばれ、祈祷獅子の形態を保っている。
 舞の後、太夫、獅子、笛吹きなど総勢30人程が地区内約120軒の家々を周り、家内安全、無病息災を祈る舞が行われる。

 暫らく歩き、国道4号に合流する手前左手に大きな松が聳える上原家がある。この辺りは間久里の立場で八軒の茶屋が軒を連ねていて、中でも秋田屋(現上原家)には参勤の秋田藩佐竹候が必ず立ち寄り名物の「鰻蒲焼」に舌鼓を打ったという。秋田屋には藩主専用の座敷「秋田炉」があった。


 国道4号を進み、せんげん台交差点を過ぎ、元は千間堀と呼ばれた新方川に架かる戸井橋を渡り、春日部市に入る。
 暫らく歩き、武里駅入口交差点の手前左手に、大枝村の鎮守で、五穀豊穣の神として崇められている大枝香取神社武里観音として知られる歓喜院がある。


 また暫らく歩き、正善小入口交差点のすぐ先右手奥に建御雷神社がある。

「建御雷神社」
 建御雷神社の創建年代は不詳であり、元は雷電社と称していたが、明治初年に現在の社号に改めたという。
 境内には、嘉永5年(1852)に築造されたという富士浅間宮大権現を祀る富士塚、三峰神社の境内社がある。

 正善小入口交差点の先、備後交差点の手前右手に浄土宗の一行山称名寺がある。創建年代は不詳であるが、境内には、享保6年(1721)造立の三界萬霊地蔵尊や「忍信生誉」と刻まれ「金精様」と呼ばれる男石がある。


 備後交差点を過ぎると、右手に、寛文13年(1673)の地蔵菩薩碑地蔵菩薩立像が安置されている地蔵祠がある。そこから暫らく進むと、備後北交差点の手前右手に、江戸日本橋より八里目となる「史跡備後一里塚跡」碑がある。


 その先右手に、浄土真宗本願寺派の正覚山善巧寺がある。創建年代は不詳であるが、境内には親鸞聖人の旅姿像がある。
 親鸞聖人は平安末期の承安3年(1173)京に生まれ、九歳で仏門に入り比叡山で修業し、法然上人の弟子となり、後に浄土真宗の宗祖となった。


 善巧寺のすぐ先、藤塚橋交差点を右に折れ少し進むと、大落古利根川に架かる藤塚橋がある。大落古利根川は、その名のとおり徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年(1594)に会之川が羽生市上新郷で、元和7年に浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。その後排水路となり、「大落」 とは農業排水を落とすという意味だという。
 藤塚橋が架かっているところには、「三蔵渡し」と呼ばれる渡船場があった。藤塚橋は、昭和8年(1933)坂巻治平氏ら10名が資金8百円で架けた木橋で、架設費を回収するため、昭和29年(1954)まで通行料を取っていたことから賃取り橋と呼ばれていた。


 日光街道(国道4号)に戻り暫らく進み、緑町交差点を過ぎた少し先左手に石碑が2基建っている。2基ともに明治時代の浅間大神碑御嶽大神碑である。


 東武野田線ガードをくぐると間もなく左手に東町大下稲荷神社がある。創建年代は不詳であるが、境内には文政2年(1819)の稱名百万遍供養塔庚申塔などがある。


 粕壁宿の入り口、一宮交差点手前の横断歩道橋のところに八坂神社がある。創建年代は不詳であるが、明和7年(1770)の火災で社殿が焼失し、明治以降は須佐之男命を祭神として祀っている。
 神仏分離以前は牛頭天王を祀っていたことから、今でも 天王様の通称で呼ばれている。境内には、徳祐彦霊神碑猿田彦大神碑などがある。


 一宮交差点の先右手に東八幡神社の参道がある。東八幡神社は、粕壁宿の鎮守で、誉田別尊(第15代応神天皇)を祀る古社で、京都「男山」に鎮座する「岩清水八幡宮」から分霊を歓請し、氏神としてお祭りしたものと伝えられている。
 境内には、御神木の樹齢約600年の大ケヤキ大杉神社弁財天雷電神社浅間神社などの境内社がある。


 一宮交差点から斜め左に旧街道に入ると右手に曹洞宗の医王山東陽寺がある。創建年代は不詳であるが、寛永年間(1624-43)に僧熊巌が中興開山したと伝えられている。元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉奥の細道の旅で東陽寺に宿泊したと云われており、境内には芭蕉の弟子曽良の日記の一節を刻んだ石碑などがある。


 東陽寺
の先は粕壁宿の中心地であるが、都市化によって宿場の面影は全くない。

「粕壁と春日部」
 南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから春日部の地名が生まれたとされる。その後江戸時代正保年間(1645年頃)には糟壁糟ヶ辺という表記が交互で使われており元禄年間(1700年頃)に粕壁糟壁と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。昭和19年(1944)内牧村と合併して春日部町が発足。同日粕壁町廃止され、同時に自治体名の漢字表記は春日部町に変更された。

「粕壁宿」
 江戸日本橋から9里余り、日光街道の4番目となる宿場町。天保14年(1843)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であったという。
 
 旧街道(かすかべ大通り)を進むと、文化会館前交差点の手前に「脇本陣跡」の標柱が立っている。
中宿(仲町)の蓮沼屋庄兵衛が勤めたが、天保元年(1830)に現在地で旅籠屋を営んでいた高砂屋竹内家が勤め、嘉永2年(1849)から幕末まで本陣になった。明治9年(1876)6月、同14年(1881)7月、明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。

 文化会館前交差点で旧街道から外れて左折し、少し先の春日部市郷土資料館に寄る。
 平成2年(1990)7月に開館した郷土春日部の歴史と文化を紹介する施設。主に旧春日部区域の歴史の展示、講演会や体験講座、古文書講座の開催、郷土資料の収集・保存と調査・研究などの活動を行っている。


 旧街道に戻り左に折れた先、群馬銀行辺りが、文化6年(1809)から嘉永2年(1849)まで本陣を務めた小沢本陣跡である。
 そしてその先右手に、本陣跡(関根本陣跡)の標柱がある。古くは、関根次郎兵衛家が勤め、その後、現在地の関根助右衛門家が宝暦4年(1754)まで務め、以降、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転した。


 本陣跡標柱の少し先右手に旧家田村家(荒物店)があり、家の前に道標が建っている。道標には、「南西いハつき 北日光 東江戸右之方陸羽みち」 と刻まれている。


 今回は、道標の先、春日部駅入り口にあたる公園橋(西)交差点までとし、春日部駅に出て解散。

第5回に続く      



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