東陽寺の先は粕壁宿の中心地であるが、都市化によって宿場の面影は全くない。
「粕壁と春日部」
南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから春日部の地名が生まれたとされる。その後江戸時代正保年間(1645年頃)には糟壁、糟ヶ辺という表記が交互で使われており元禄年間(1700年頃)に粕壁、糟壁と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。昭和19年(1944)内牧村と合併して春日部町が発足。同日粕壁町廃止され、同時に自治体名の漢字表記は春日部町に変更された。
「粕壁宿」
江戸日本橋から9里余り、日光街道の4番目となる宿場町。天保14年(1843)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であったという。
旧街道(かすかべ大通り)を進むと、文化会館前交差点の手前に「脇本陣跡」の標柱が立っている。
中宿(仲町)の蓮沼屋庄兵衛が勤めたが、天保元年(1830)に現在地で旅籠屋を営んでいた高砂屋竹内家が勤め、嘉永2年(1849)から幕末まで本陣になった。明治9年(1876)6月、同14年(1881)7月、明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。
|