大山道を歩く

No.1


 中山龍次郎著「ホントに歩く大山街道」(風人社)をガイドとして、生涯大学30期文化AクラスOBの有志で、「大山街道」を歩き、大山詣をしていきます。

 大山街道は、江戸中期以降、江戸庶民が大山詣の道として盛んに利用した「矢倉沢往還」(東海道の脇往還として江戸時代に整備された道で、煙草・生糸・茶・炭・鮎などを駿河・伊豆方面から江戸に運ぶ経済的な道路)を「大山街道」と呼んだことに始まるとされている。
 江戸の赤坂を起点として、三軒茶屋を経て多摩川を二子の渡しで越え、長津田、厚木などの宿場を過ぎ、伊勢原で矢倉沢往還と分かれ、終点の大山阿夫利神社に至る、約70kmの道程である。



第1回 赤坂御門〜牛啼坂〜高橋是清翁記念公園〜青山一丁目交差点〜青山三丁目交差点〜表参道交差点〜宮益坂上〜ハチ公広場前〜道玄坂上〜大坂上〜池尻大橋駅〜三宿交差点〜三軒茶屋交差点

H29年11月14日   

 10:00、赤坂御門跡前(地下鉄半蔵門線の永田町駅9番出口を出たところ)に、9名が集合、「史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門」前から歩きはじめる。

「赤坂御門」
 寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、枡形石垣が作られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成した。江戸城三十六見附の一つで、赤坂見附とも呼ばれていた。桝形門は江戸城から赤坂方面への出口であったが、明治5年(1872)に撤去され、石垣の一部が残されている。
 江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山街道の重要な地点でもあった。 

 歩きはじめるとすぐ右手に、弁慶掘に架かっている弁慶橋がある。橋の前、赤坂見附交差点を越え、青山通り(国道246号線)に沿ってゆるい坂を上ると、右側に赤い鳥居の豊川稲荷が見える。ここから青山通りと分かれ左斜め、牛啼坂に入る。

「弁慶橋」
 江戸城南側の外濠・弁慶濠に架かっている橋で、江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋であることから、弁慶橋と名付けられたといわれている。
 なお、濠の名は弁慶橋から命名されたものである。

 牛啼坂は赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。
 牛啼坂を上っていくと、途中に山脇学園があり、そこに江戸幕府老中方屋敷の表門であった「武家屋敷門」がある。坂の出口は「赤坂地区総合支所前」という交差点になっていて、左側から薬研坂が上ってきて、ここで青山通りと合流する。

「薬研坂」
 薬研とは、漢方薬などを砕くときにすり鉢のように使われる、舟の底のような形をした道具のことで、このさかが、中央がくぼみ両側の高い形が薬研に似ているために名づけられた。

「武家屋敷門」
 武家屋敷門は、江戸城東廓八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中方の表門で、文久2年(1862)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。
 当時は桁行五十八間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右両側が縮められて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式を持つ唯一の遺構である。(重要文化財に指定されている)

 青山通りと合流して少し進むと左側に「高橋是清翁記念公園」がある。

「高橋是清翁記念公園」
 もとは青山備前守の屋敷跡、明治時代後期、日本の金融界の重鎮であり、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家で、昭和11年2月26日の2.26事件の時ここで暗殺された高橋是清(1854〜1936)の邸宅跡。昭和13年、記念事業会が東京市に寄与して同16年に記念公園として開園し、昭和50年に港区が管理をするようになった。
 中央の池泉のまわりには石橋や石人像、石灯篭が配置され、池の傍らの井戸からは、豊かな水が湧出しており、カエデ、モッコク、ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩る、日本庭園の趣きをもった公園である。
 邸宅は移築され、現在では都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」にて公開されている。

 高橋是清翁記念公園の隣にはカナダ大使館があり、この中にある「高円宮記念ギャラリー」が一般公開されているので入ってみる。

「高円宮記念ギャラリー」
 カナダ大使館地下2階にあり、絵画、彫刻、写真、テキスタイル、デザイン等カナダ人による作品を展示している。高円宮殿下の功績を称える記念行事の一環として現在のギャラリー名となった。
 カナダ連邦結成150周年記念事業の一環として、現在(〜11月21日)「イヌイットの彫刻 高円宮コレクション」を開催している。

 青山通りの右手、紅葉した木々が続く、東宮御所・赤坂離宮がある赤坂御用地を眺めながら歩く。青山二丁目交差点のところでは、右手に明治神宮外苑の黄葉したイチョウ並木とその奥の絵画館が眺められる。



 さらに少し進むと、外苑前交差点に着く。左手に、孟宗竹が植えられた参道の「梅窓院」がある。梅窓院は、「青山の観音様」で知られた寺で、江戸時代の初期に、領主青山幸成の法号に因んでつけられた名称と伝えられている。 

 外苑前交差点から表参道交差点を越え進むと左手に、赤レンガに囲まれた青山学院が見え、その先が宮益坂交差点だ。ここから青山通りと分かれ、宮益坂を下っていくと、坂の途中右手奥に「御嶽神社」の社殿と石段が見える。宮益の地名の起こりは、この御嶽神社のご利益で益々栄える街ということに由来すると伝えられている。

「御嶽神社」
 渋谷御嶽神社は、元亀元年(1570)に創建、寛永年間(1624-1644)に再建したという。明治3年(1870)には、明治天皇が駒場野練兵場へ行幸の際に休息所となり白木鳥居・駒寄の寄進を受け、昭和12年(1937)には聖跡に指定されたという。
 社殿の前の狛犬は、犬ではなく全国的にも珍しいという、日本狼の狛犬像が立っている。これは複製で、延宝年間(1673〜1681)に造立されたというブロンズ製の実物は社務所内入口付近に保管されている。

 宮益坂を下り、明治通りとJR山手線のガードをくぐるとハチ公前広場に出る。渋谷駅前スクランブル交差点を渡り、道玄坂を進む。

 坂の途中右手に、関東大震災で被災した店を受け入れてできた繁華街である百軒店を見て長い坂を上ると、左側角に「道玄坂の碑」と「与謝野晶子の歌碑」がある。

「道玄坂の碑」と「与謝野晶子の歌碑」

 渋谷氏の一族である大和田道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。

 歌人与謝野晶子が詠んだ、
  母遠(とほ)うて瞳(ひとみ)したしき西の山 相模(さがみ)か知らず雨雲(あまぐも)かゝる
は、明治35年(1902)4月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められている。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚した。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っている。なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字である。

 道玄坂上から神泉町交差点を越え少し進むと大坂上に着く。右に入る細い坂道が大坂である。大坂は大山街道中、最も険しい坂の一つで、落とした団子が坂の下まで転がるほどの急坂だったことから、団子坂ともいわれた。

 大坂を下りると山手通りにぶつかり、山手通りを越え坂を上りきったところ右手に氷川神社がある。

「氷川神社」
 上目黒氷川神社は、天正年間(1573-1592)に上目黒村の旧家加藤氏が創建したと伝えられる。上目黒1-8にあった浅間神社を、明治11年に当社へ遷座、明治45年に北野神社を合祀したという、厄除の神として親しまれる神社である。
 鳥居の横には、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標がある。

 氷川神社参拝の後、玉川通り(国道246号線)を渡り、ちょっと寄り道をして、目黒区立目黒天空庭園へ。

「目黒区立目黒天空庭園」
 首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した庭園で、目黒区の区立公園として整備されている。
 ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11メートルから35メートル、延長距離は約400メートルで、平均勾配約6%のループ状である。


 天空庭園を出て、玉川通りを進み目黒川を渡る。ここには大きな石橋が架かっていたことから大橋と云われている。緩い坂道を少し進むと東急新玉川線の池尻大橋駅に着く。
 ここから玉川通りと離れ、左斜めに旧道に入る。暫らく進むと右手に鳥居が見える、池尻稲荷神社である。

「池尻稲荷神社」
 池尻稲荷神社は明暦年間に創建したと伝えられ、旧池尻、池沢両村の鎮守社で、古くから「火伏せの稲荷、子育て稲荷」として住民に信仰されてきた。また大山街道に面しており、江戸からの大山詣で旅人が水を求めて立ち寄ったとされる。
 また、ここには薬水の井戸とも呼ばれる「涸れずの井戸」という霊水があり、「神の道を信じ勤めその病気の平癒を心に三度念じ、神の薬として飲みほせば薬力明神の力により、病気立ちどころに快癒する」とある。
 現在は少し離れた場所でポンプで汲み上げられて、手水舎の水として使われている。

 稲荷神社を出ると、緩い坂道はゆっくり右方向に向きを変え、三宿交差点で玉川通りに合流する。旧三宿村は、北宿・本宿・南宿と三つに分かれていたため、この名が付いた。玉川通りを暫らく歩くと三軒茶屋に着く。

「三軒茶屋」
 江戸中期以降、社寺参詣ブームで賑わった大山街道と登戸道の分岐(追分)付近に信楽(後に石橋楼)、角屋田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来する。
 江戸時代には、十二代将軍家慶のお狩場の休憩所し、高野長英坂本竜馬など、開国の志士も休んだといい、明治時代になってからは、明治天皇をはじめ、軍の大将なども休憩している。
 三軒茶屋交差点三叉路に、不動尊の道標があろ。正面には「左相州通大山道」、側面には「右富士、登戸、世田谷通」と彫られている。

  今回はここ三軒茶屋までとする。

第2回に続く      



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