玉川八十八ヶ所霊場めぐり

その6

 京浜急行線大森町駅に10:00に集合。今回もまた爽やかな秋晴れで、参加者も6名と大勢だ。まずは77番札所の密乗院へ。大森町駅から第一京浜を渡り、産業道路を右折し0.5kmほど行き、弁天神社前交差点を右に折れ、その先を左に曲がると右手が密乘院、大森町駅よりおよそ0.8kmだ。

第七十七番札所



海光山  大森寺  密乗院
御本尊  不動明王
開山    真栄  約800年前
東京都大田区大森中2−17−5

 密乗院は、およそ800年前に真栄が開創し、不動明王を安置した。徳川家康が狩に来て、当寺に休んだとの伝説がある。寺領20石を賜ったが天明年間(1781-1789)火災のため朱印および堂宇を焼失した。神仏混淆の頃は、大森各神社の別当を兼ねたと伝えられている。
 密乗院に保存されている文化財である板碑は、昭和六年に隣地三輪厳島神社境内から発掘されたもののうちの十六基である。
 年代銘のあるものは延慶三年(1310年)から文明六年(1474)まで、このうち延慶三年のものは釈迦種子、他は全部阿弥陀種子を刻する。
 板碑は、中世の人が仏を供養するために緑泥片岩で作った卒塔婆で、俗に青石塔婆と呼ばれる。



 参拝後、奉納経をいただき、78番札所の自性院へ。産業道路へ出て南に向かい、環八通りを横切り、多摩川に架かる大師橋の袂に産業道路に面して78番札所自性院がある。密乗院よりおよそ2.4kmである。

第七十八番札所




常栄山  本覚寺  自性院
御本尊  薬師如来
開山    慈性上人  平治元年(1159)寂
東京都大田区本羽田3−9−10

 自性院は、慈性(平治元年1159年寂)が開基となり創建したと伝えられる。恵麻法師(永禄2年1559年寂)が中興した。
 安政5年(1858)いわゆる自性院火事により、諸堂焼失した。その後復興につとめ、明治42年(1909)に本堂建立、大正2年(1913)庫裡を改築、昭和4年(1929)年頭天王堂を移築、昭和10年(1935)地蔵堂を建造した。
 牛頭天王社は文久元年(1861)、大森の弁天神社の社殿として建てられ、羽田村・羽田猟師町の鎮守となっていた。明治維新の神仏分離で、八雲神社として分離独立し、さらに発展して隣接の羽田神社となった。
 現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より昭和4年に移築したものである。大田区内でも数少ない建築年代等の明確な建物であり、江戸時代末期の精巧な建築として価値が高い。


 参拝後、奉納経をいただき、羽田神社を挟んである79番札所正蔵院へ。

第七十九番札所



喜修山  了仲寺  正蔵院
御本尊  不動明王
開山  不詳  年代不明
東京都大田区本羽田3−10−8

 正蔵院の創建年代は不詳だが、正蔵院住職重仙が宝徳2年(1449)に、蔵院住職乗信が文禄4年(1595)に当寺の本尊不動明王像を修復したといい、室町時代以前の創建と推定される。
 慶安3年(1650)境内は多摩川の洪水により川の中に入ったため,元禄8年(1695)に織田越前守の検地により2段1畝8歩を境内地として与えられたという。大正11年(1922)5月20日羽田仲塗師観蔵院を合併した。


 参拝後、奉納経をいただき、産業道路の下くぐった少し先の左手にある80番札所龍王院へ。

第八十番札所



医王山  龍王院
御本尊  薬師如来
中興開山  法印融恵  弘治三年(1557)
東京都大田区羽田2−26−11


 龍王院の創建年代は不詳だが、融恵が弘治3年(1557)龍王院に入り再興したといい、戦国時代以前の創建と推定できる。
 海誉(宝暦3年寂)が後の中興といわれるのは、堂宇を建て、寺院の隆盛をきたしたためである。羽田に要島弁財天を建立し、その別当となった。


 参拝後、奉納経をいただき、産業道路に戻り、羽田二丁目交差点角のファミレスで昼食。その後、83番札所秀明寺へ。羽田二丁目交差点から萩中公園の前を通り、鎌田女子高の角を左に曲がるとすぐ右手が83番札所秀明時だ。羽田二丁目交差点からおよそ1.3kmである。

第八十三番札所


用明山  秀明寺
御本尊  聖徳太子
開山  花園天皇侍臣秀明  年代不明
東京都大田区本羽田1−3−11

 秀明寺の創建年代は不詳だが、花園天皇が刻ませた聖徳太子像を本尊として、花園天皇の侍臣秀明が開基となり創建したと伝えられる。
 寺伝によれば、慶長元年(1596)花園天皇は聖徳太子16歳の姿を刻ませ、有縁の地を求めて、侍臣秀明に、浪花の海に投ぜさせられたところ、荏原部羽田浦に着いた。土地の人は、これを堂に移して供養した。その後、秀明はこの地に来たり、1宇を建てて秀明寺としたといわれる。


 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、84番札所寶泉寺へ。鎌田女子高の前を進み、次の信号の交差点を右に。暫らく進み、南六郷二丁目交差点を右斜めに水門通り商店街を行き、水門通り交差点を左に曲がり、城南特別支援学校の前を左に折れると間もなく寶泉寺だ。境内は工事中だが本堂はお詣りできるようになっている。秀明寺からおよそ1.1kmである。

第八十四番札所



自性山  蓮耀院  寶泉寺
御本尊  大日如来
中興開山 祐賢大和尚  寛永9年(1632)寂
東京都大田区南六郷2−26−12


 寶泉寺の創建年代は不詳だが、祐賢(寛永9年1632年寂)が中興開山、その後火災のため堂宇悉く焼失したので、覚厳(寛政10年1798年寂)が本堂等を再建し、中興二世となったという。


 参拝後、奉納経をいただきに、仮社務所に行ったが、住職不在のため、後日郵送して貰うことにする。
城南特別支援学校、六郷工科高の脇を通り第一京浜に出て左へ。雑色駅入り口を左に入り、およそ0.6km程で雑色駅に到着。ここで解散とする。次回は第八十一番と八十二番札所。


 東横線綱島駅に10:00に集合。今回は横浜市の2つの札所の予定。生憎の雨模様であるが、まず、81番札所長松寺に向かう。駅前から綱島街道に出て、南に歩き、樽町交差点を左折し、県道140号を暫らく進み、駒岡交番前交差点を右折。またしばらく歩き環2駒岡交差点を左に折れると間もなく左手に長松寺がある。綱島駅からおよそ2.4kmだ。

第八十一番札所



摩尼山  長松寺
御本尊  薬師如来
中興開山  法印慈観  年代不明
神奈川県横浜市鶴見区駒岡3−4−22

 長松寺境内の石碑によると、開山は、延宝5年(1677)権大僧都法印快重によるとされている。
貞亨2年(1685)帰命院山海行者が大日如来の霊夢に感じて、現在の本堂の裏手にあった岩くつ内で入寂し、即身仏になったという。
 これに由来する大日如来は、流行病除けの仏様として深く信仰されてきた。この大日如来を脇仏とする長松寺も強病、流行病、亡きことを祈る寺でもある。

 参拝後、奉納経をいただき、82番札所観音寺へ。環状2号線を新横浜方面に暫らく歩き、大豆戸交差点を左折し菊名駅前へ出る。菊名駅前から横浜線の線路に沿い新横浜方面に歩くと、左手に観音寺の看板があり、参道の坂道を登ると82番札所観音寺である。長松寺よりおよそ4.3kmである。

第八十二番札所



八幡山  観音寺
御本尊  十一面観音菩薩
開山  祐覺和上 天正一七年(1589)
神奈川県横浜市港北区篠原町2777

 創建年代については諸説ある。天正17年(1589)祐覺和上によって開基されたとの一伝があるが、これは『新編武蔵風土記』に紹介されるもので、観音寺鎮守の八幡宮(現・篠原八幡神社)における別当寺としての性格も考慮すると、八幡宮の創建時期は鎌倉期と推察されるので、観音寺の歴史も天正を遡ることは十分に予見できるのである。
 昭和20年4月には、川崎大師平間寺の御本尊「厄除け弘法大師像」が観音寺に避難された。時の住職隆悦和上は秘密裡に境内の一画に専用の横穴を掘り、そこに御本尊ご宝物を丁重に安置し、川崎大空襲の難を逃れたといわれている。
 観音寺は、チベットの高僧が訪れ、灌頂や法話をされており、チベット問題を学ぶ勉強会が開かれたりしている。また、寺内にチベット語で書かれた般若心経が掲げられている。



 今回この2つの札所だけなので、参拝後、奉納経をいただき、新横浜駅まで0.6kmほど歩き解散とする。次回は第七十一番札所からで、あと4ヶ寺で、いよいよ結願を迎える。


 京浜急行線京急蒲田駅に10:00に集合。今回で結願を目指すのに相応しく良く晴れている。参加者は年末ということもあって4名だ。まずは駅に近い87番札新照寺へ。駅前から第一京浜を渡り、京急空港線の高架下の道を少し歩くと間もなく左手に新照寺がある。京急蒲田駅からおよそ0.3kmだ。

第八十七番札所



新照寺   阿弥陀堂
御本尊   阿弥陀如来
開山 不詳  年代不明
東京都大田区南蒲田1−9−13

 新照寺は、もともとは阿弥陀堂といい、宝幢院の境外仏堂として存在していた。開創ははっきりとはわからないが昔の住職のお墓として残っている先師尊霊のお墓のなかに「寛政七年」と彫られているお墓がみられることから江戸時代中頃にはもう存在していたと思われる。その後昭和60年3月に所定の手続きを経て新照寺となり、これをもって開創の年としている。



 参拝後、奉納経をいただき、85番札所寶珠院へ。第一京浜へ戻り、川崎方面に暫らく歩き、雑色駅入り口を過ぎ、東六郷三丁目交差点の少し先の右側に85番札所寶珠院がある。新照寺からおよそ2.4km。

第八十五番札所




御幡山  建長寺 寶珠院
御本尊  阿弥陀如来
中興開山  弁栄上人  承応2年(1653)寂
東京都大田区仲六郷4−34−8

 寶珠院の寺伝では開基を弁栄とするも、弁栄は承応2年(1653)7月に寂しており、おさらく中興の僧と考えられる。それは天正年中(1573-91)の記録に、すでに当寺の号が見られるからで、戦国時代には既に創建されていたと伝えられる。もと宝幢院末で、六郷神社の別当寺を務めていた。


 参拝後、奉納経をいただき、86番札所東陽院へ。宝珠院の脇の道を京浜急行のガードをくぐった先が東陽院だ。宝珠院からはおよそ0.1km。

第八十六番札所



慈雲山  安楽寺 東陽院
御本尊  如意輪観音菩薩
開山  栄尊上人  寛永二一年(1644)寂
東京都大田区仲六郷4−6−2

 東陽院は、栄尊法印(寛永21年1644年寂)が開基となり創建した。当寺の釈迦如来立像・弘法大師坐像が寛永12年(1635)に造立にされていることから、1630年〜1640年前後の創建と考えられるす。
 以前の本堂は江戸時代後期に火災にあい、文化年間(1804-16)には未だ再建されず、その跡に暫く宝篋印塔が建てられていた。現在の本堂は江戸末期のものであり、もと瓦葺であったが、大正12年(1923)の震災により銅板に葺き替えた。
 釈迦如来立像(寛永12年(1635)造立)、観世音菩薩立像(正保3年(1646)造立)、弘法大師坐像及び厨子(寛永12年(1635)造立)は、いずれも大田区の有形文化財に指定されている。


 参拝後、奉納経をいただき、いよいよ最終の88番札所寶幢院へ。東陽院から東海道線に沿って鎌田方面に歩き、突き当りを左に折れ東海道線の踏切を渡り、八代歯科医院の角を右に折れると間もなく88番札所寶幢院である。東陽院からおよそ0.8km。

第八十八番札所




大綱山  光明寺 寶幢院
御本尊  阿弥陀如来
開山  行観覚融上人  保元元年(1156)寂
東京都大田区西六郷2−52−1


 寶幢院は、鵜の木光明寺第3世行観(保元元年1156年寂)が創建したと伝えられ、門末50余ヶ寺を擁した檀林所で、天正19年(1591)には徳川家康から11石の朱印状を拝領し、歴代将軍の庇護をうけた。しかし、安政6年(1859)の大暴風のため、諸堂倒壊し、さらに明治維新の変革により、衰運に傾く。
 大正7年(1918)に至り、本堂、庫裡、山門、鐘楼を建造したが、昭和20年(1945)の戦災により、山門、鐘楼を残して焼失し、昭和37年(1962)本堂、庫裡を再建した。大正期には、末寺だった泉蔵院を合併している。
 鐘楼にある梵鐘は、延宝9年(1681)に鋳物御大工椎名伊予守良寛の手により多摩川の河原において鋳造されたもので、太田区内最古の梵鐘である。


 参拝後、奉納経をいただき、玉川八十八霊場の結願成就だ!

 宝幢院の前の道を北へ少し歩き、「西六郷二丁目」より「蒲田駅」までバスで移動。蒲田駅前のレストランで昼食を摂り、ささやかな打ち上げを行い解散とする。


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