玉川八十八ヶ所霊場めぐり

その5

 台風一過で、晴れて暑くなるという。東急多摩川線武蔵新田駅改札付近に10:00に集合。まずは62番札所花光院へ向かう。駅からまっすぐ南に向かいおよそ0.5km、左手に花光院がある。

第六十二番札所


福田山  蓮花寺  花光院
御本尊  大日如来
開山  法印快智  延宝二年(1674)寂
東京都大田区矢口2−3−12

 花光院は、快智(延宝2年1674年寂)が開山となり創建、矢口新田神社の別当寺、同宗真福寺が、大正末年に廃寺となり、真福寺を合併したという。



 参拝後、奉納経をいただき、63番札所圓應寺へ向かう。花光院の前の道をさらに南へ向かいおよそ0.8km、多摩川沿いの道に面して63番札所圓應寺がある。


第六十三番札所



播曜山  恵門院  圓應寺
御本尊  大日如来
開山  不詳  年代不明
東京都大田区矢口3−21−15

 圓應寺の創建年代は不詳だが、中世の古碑があったといい、古寺であるという。鎌倉時代後期より、多摩川と岸辺に暮らす人々を見守り続けて700年のお寺である。
 境内には十三仏参りのための仏様が並んでいる。
  
 また、度重なる多摩川氾濫を供養するための庚申供養塔(大田区指定文化財)がある。
 

 参拝後、奉納経をいただき、64番札所遍照院へ向かう。多摩川沿いの道を歩き、第二京浜の下をくぐり、コーシャハイム多摩川のところを左折しまっすぐ進むと矢口渡駅前に出る。 踏切を越え環八通りを横切ると、右手環八通り沿いに64番札所遍照院がある。圓應寺からおよそ1.2kmだ。

第六十四番札所



光明山  無量寺  遍照院
御本尊  阿弥陀如来
開山  不詳  年代不明
初代 祐鎮上人 寛永八年(1631)寂
東京都大田区多摩川1−5−14

 遍照院の創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿の編纂された文化文政年間(1804-1829)には一寺として成立していたという。
 庚申供養塔(延宝八年、1680年)、廻国供養塔(正徳四年、1714年)など大田区指定文化財の供養塔郡がいくつかあるが、中でも念仏供養塔(承応三年、1654年)は、阿弥陀如来像を陰刻した念仏供養塔としては区内最古のもので、中世板碑の遺風を伝えるもの。


 参拝後、奉納経をいただき、70番札所蓮花寺へ向かう。環八通りから左に入り、都道11号線(多摩堤通り)を右折しまっすぐ進み東急池上線の蓮沼駅前の踏切を越え左折。線路に沿った道を200mほど行き、右に折れると突き当りが70番札所蓮花寺。遍照院からおよそ1.1km。

第七十番札所



福田山  花光院  蓮花寺
御本尊  十一面観音菩薩
開山 恵心僧都  寛弘年間(1004−1011)
東京都大田区西蒲田6−13−14

 蓮花寺は、寛弘年中(1004−11)恵心僧都が草創したと伝えられる。嘉禄康元(1225−56)年間に、当地領主の荏原兵部有治が発心して法名蓮沼法師となり、鎌倉将軍家宗尊親王より御教書を拝領して中興した。 江戸期には福田山蓮光院蓮華寺と称していたが、現在は福田山蓮沼院蓮花寺としている。
 その様式から鎌倉時代ごろの作と推定される本尊の十一面観世音菩薩立像は天文年間(1532〜1555年)の兵火で焼失を免れ、以後「火除観音」として信仰されてきた。大田区の有形文化財に指定されている。


 参拝後、奉納経をいただき、予定では蒲田駅周辺で昼食としていたが、次の65番札所金剛院行くには遠回りとなるので、蓮沼駅まで戻り、駅前で昼食。その後、まっすぐ南に進み、環八通りを越え右に行くとすぐ65番札所金剛院だ。蓮花寺からはおよそ0.9km。

第六十五番札所



円日山  大照寺  金剛院
御本尊  大日如来
開山  不詳  年代不明
東京都大田区新蒲田2−3−6

 金剛院は、創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1615)に小林坊という庵室が既にあり、当寺の旧名だと伝えられている。本尊の大日如来は、大田区有形文化財に指定されている。
 建物は、戦災により焼失したが、昭和23年(1948)同32年(1957)に再建された。


 参拝後、奉納経をいただき、66番札所東福寺へ。金剛院の脇の道を進み、新蒲田2丁目交差点を直進し暫らく進むと左手、諏訪神社の隣が66番札所東福寺だ。金剛院からおよそ0.5km。

第六十六番札所



諏訪山  源光院  東福寺
御本尊  阿弥陀如来
中興開山  栄感上人  天和1年(1681)寂
東京都大田区多摩川2−10−22

 東福寺は、創建年代は不詳だが、僧栄感(天和元年1681年寂)が中興開基と伝えられている。


  参拝後、奉納経をいただき、67番札所大楽寺へ。東福寺の前の通りを東におよそ0.4km進み、交差点を右折、道塚小学校前交差点を過ぎると間もなくの右手が67番札所大楽寺だ。東福寺からおよそお。6km。

第六十七番札所



金剛法山 願照院 大楽寺
御本尊   阿弥陀如来
中興開山  法印祐長  寛永一八年(1641)寂
東京都大田区新蒲田3−4−12

 大楽寺の開基は寛仁三年(1019)と伝えられ(極楽寺と呼ばれ、七堂伽藍の整った壮麗な道場であった)、天応3年(1319)信大阿常梨が当地に一宇を建立したのが始まりと伝えられる。
 小田原北条氏の兵火に罹り、法印祐長(寛永18年1641年寂)が中興した。
 徳川二代将軍秀忠が自分の子供の健康を祈って経文一巻とを奉納したことが伝えられ、今も随所に葵の紋が確認できる。
 境内には鎌田不動尊が建っている。

 参拝後、奉納経をいただき、69番札所安養寺へ。大楽寺の前の道をまっすぐおよそ1km程南下し、交差点を右に曲がり、多摩川土手の手前右側が安養寺だ。大楽寺からおよそ1.1kmである。

第六十九番札所


医王山  世尊院  安養寺
御本尊  五智如来
開山  行基  和銅三年(710)
東京都大田区西六郷2−33−10

 安養寺は、永伝法印(永禄11年1568年寂)が創建、栄伝が中興開山と伝えられる。境内の薬師堂は和銅三年(710)行基(667−749)の創建と伝えられる。
 安養寺は、薬師堂(古川薬師)の別当寺を務めていた。
 安養寺の門前には「古川薬師道 道標」が建っている。東海道から多摩川道に入る分岐点に、江戸の有志の寄進により建てられたが、のち古川薬師を祀る安養寺の門前に移された。
 古川薬師は、古来信仰を集め、江戸時代には近郊の行楽地になっていた。


 参拝後、奉納経をいただき、本日の最後の目的寺68番札所薬王寺へ。安養寺の前の道をまっすぐ東に向かい、東海道本線に突き当たる手前左側に、薬王寺参道の道標がある。 安養寺からはおよそ0.5km。

第六十八番札所


東輝山  薬王寺
御本尊  薬師如来
開山 宥範上人 延宝5年(1677)寂
東京都大田区西六郷2−23−15

 薬王寺の開山は宥範で、延宝5年(1677)5月26日に寂しているから、その近年に開創されたものと考えられる。寺伝によると古川薬師安養寺の隠居寺といわれている。
 長い参道がある。
    

 参拝後、奉納経をいただき、東海道線に沿い左に行き次の踏切を渡り京浜急行雑色駅へ出て本日は終了とし解散する(薬王寺よりおよそ0.6km)。次回は第七十一番札所から。


 爽やかな秋晴れの下、都営浅草線西馬込駅に集号。まずは駅に近い71番札所の円乗院へ。西馬込駅南口から東におよそ0.3kmほど歩くと到着。

第七十一番札所


陽岳山  南晴寺  円乗院
御本尊  不動明王
開山 天永年間(1110−1112)
東京都大田区南馬込5−15−5

 円乗院は鎌倉時代末期、天永法印によって草創されたと伝えられている。戦後の混乱期に晋山した先代住職が宗門隆盛のために尽力したことから、昭和56年(1981)に高野山真言宗の準別格本山とされた。
 比較的小さな山門をくぐると、正面に堂々たる風格の本堂が建っている。左手には大師堂や閻魔堂などがある。
 古より「月の名所」として歌人が集い、月をめでる人々で賑わったと伝えられている。。



 参拝後、奉納経をいただき、72番札所の長遠寺へ。馬込区民センターの前を通り、北の方へ坂を上り下りしておよそ0.7kmほど行くと、馬込小の向かいが長遠寺である。隣に馬込八幡神社がある。

第七十二番札所



海岳山  大乗院  長遠寺
御本尊  不動明王
開山 宥尊上人 天仁元年(1108)
東京都大田区南馬込5−2−10

 長遠寺は、天仁元年(1108)宥尊の草創で、馬込村字堂寺にあったが、建武年間(1334-38)に兵火で堂宇を失って衰えた。その後文亀2年(1502)現在地に移り、元禄年間(1668-1704)快慶によって諸堂が修復された。
 現存の本堂は文久元年(1861)に宥円が再建したもの。明治初年までは馬込八幡神社など12社の別当を勤め、また大井来福寺以下9寺を末寺としていた。
 なお現在内陣に合祀している十一面観音は、もと目黒行人坂光雲寺の本尊で、神亀元年(724)行基(668-49)の作といわれ、同寺が明治初年に廃寺されるにおよんで当寺に移されたものである。
 

 参拝後、奉納経をいただき、73番札所の鏡王院へ向かう。馬込小の前から第二京浜に出て、五反田方面に歩き、環七通りを越え、グラントゥルース馬込というビルのところを右に入ると間もなく鏡王院だ。長遠寺よりおよそ1.2km。

第七十三番札所



東照山  鏡王院
御本尊  釈迦如来
開山  昭和11年(1936)
東京都大田区東馬込1−1−12

 鏡王院は、昭和11年中延に創建、昭和22年当地へ移転したという。数あるお寺の中ではもっとも新しいお寺と言える。


 参拝後、奉納経をいただき、西大井駅へ向かう。朋優学園高の前を東に進み、品川区に入り、0.7kmほど行くと伊藤博文公墓所があり、その先の横須賀線のガードをくぐると左手が西大井駅だ。この辺りで昼食をと思っていたが、時間が早いので、74番札所の來福寺に向かうことに。
 駅前から滝王子通りを東に進み、池上通りを横切り、東海道線のガードをくぐってその先、浜川小の角で、桜新道を左に曲がる。立会川に架かる桜橋を渡ると見晴らし通りと名前が変わり、大井町方面に進み、大福生寺の少し先を右に曲がった先の左手が來福寺である。鏡王院から2.7km。

第七十四番札所



海賞山  地蔵院  来福寺
御本尊  延命地蔵菩薩
開山  智弁上人  正暦元年(990)
東京都品川区東大井3−13−1

 来福寺は、正暦元年(990)藤原兼家が摂政の時、智弁という僧が開かれたものである。それから60年余りして世の中の乱れと共に衰微した。文亀元年梅巌という僧が、昔右大将頼朝が戦没諸兵追善のために写経を埋めたといわれてる納経塚(大井1丁目庚申堂)の傍らを通られ、その塚の中から読経の声をきかれて仏像を掘出し、この寺に安置したのである。その為にこの御本尊を別名経読地蔵と云われるようになった。
 本堂の左右には松と桜が植えられている。松は、この寺が鎌倉時代の武将梶原景季に縁があると伝えられることから「梶原の松」と呼ばれる。また、桜は、江戸時代に桜の名所であったことを偲んで植えられ、本尊にちなんで「延命桜」と名づけられた。「延命桜」は今は残っていない。
 小泉信一郎元総理、安倍晋三総理が寄進した桜もある。



 参拝後、奉納経をいただき、立会川駅の近くで昼食後、75番札所圓能寺へ。第一京浜を南に歩き、京浜急行のガードをくぐった先に、鈴ヶ森刑場跡があるのでお参りをして、そこから西に向かい、東海道線をまたぐ歩道橋を渡り、再び大田区に入り、池上通を横切ると間もなく圓能寺だ。来福寺より2.1km。

第七十五番札所



成田山  圓能寺
御本尊  不動明王
開山  元亀二年(1571年)
東京都大田区山王1−6−30

 圓能寺は、室町時代末の元亀二年(1571年)、祐仙和尚によって開創された。
 元来は山号を海光山、院号を明王院と号したが、昭和二十七年(1952年)に成田山新勝寺(千葉県成田市)の直末寺院となり、以来、成田山圓能寺と号している。 御本尊の不動明王は、小田原北条氏ゆかりの尊像とのいわれがあり、古来より身代わり不動として人々の信仰を集めている。
 祐仙和尚が遷化されたのち一時は衰退したが、享保時代(1716-1735)に入り、第九世慧燈和尚によって繁栄を取りもどした。 当時は天祖神社と日枝神社の別当を兼ねていた。

 

 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、76番札所密厳院へ。池上通りへ戻り、JR大森駅の構内を通り、駅前から入新井公園の脇を通り、沢田通りへ出て、八万通り入り口交差点を左に曲がると間もなく右手に密厳院がある。圓能寺より1.4km。

第七十六番札所




八幡山  祈念寺  密厳院
御本尊  不動明王
開山  法印運誉  文安5年(1448)
東京都大田区大森北3−5−4

 密厳院は、文安5年(1448)に法印雲誉が創建したといわれています。もと磐井神社の別当寺である。
 また昔は今の新井宿村の境、鷲宮の辺が当寺の大門の跡で、そこに今も祈念塚という塚がある。これもその頃は境内地であったからその名が残った。このような大寺でだったが、いつの頃か火災にあって、境内が狭くなったという。
 本堂は近代的な建物の中の2階という珍しいお寺だ。
 境内には、八百屋お七をお祀りしたお七地蔵や、聖徳太子像を安置 した、太子堂などがあある。
 お七地蔵は、鈴ヶ森刑場で処刑された八百屋お七の霊を慰めるために、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、三回忌にあたる貞享2年(1685年)に建てたもの。区指定文化財。

お七地蔵 太子堂

 参拝後、奉納経をいただき、大森駅まで来た道を戻り、ここで解散とする。次回は第七十一番札所から。

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