玉川八十八ヶ所霊場めぐり

その4

 世田谷線世田谷駅に10:00に集合。今回は久々の快晴、参加者も9名と今までで一番大勢だ。まずは駅のすぐ近く、世田谷通り沿いにある49番札所の円光院へ。

第四十九番札所


大悲山 明王寺 円光院
御本尊  不動明王
開山  成尊上人  天正年間(1573−1591)
東京都世田谷区世田谷4−7−12

 円光院は天正十年に世田谷城主「吉良頼康公」により創建され、「盛尊和尚」開山後四百年以上の歴史を持つ由緒ある寺院。
 明治初期に廃寺の運命をたどろうとしたとき、吉良家の祈願寺であり、代官大場家の信仰の寺という由緒を深く惜しんで檀家の強い願いのもとに明治26年に再興された。明治32年信海大和尚が境内の大改修工事を行い今日の隆盛の基礎を築いた。
 境内には、都内でも珍しい閻魔十王像が安置されている「閻魔堂」がある。



 参拝後、奉納経をいただき、世田谷駅前の踏切を渡りしばらく進み、世田谷区役所・国士舘大学方面に曲がるとすぐ左手が48番札所勝国寺だ。円光院よりおよそ0.7kmである。

第四十八番札所



青龍山 薬師院 勝国寺
御本尊  不動明王
中興開山  定慶 貞亨1年(1684)寂
東京都世田谷区世田谷4−27−4

 勝国寺は、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号し創建、吉良家滅亡後も江戸幕府より12石の朱印状を与えられた御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったという。 
 昭和20年5月の空襲により、本堂、書院を焼失したが、本尊と脇付の薬師如来は戦火を逃れ、その際に薬師如来の胎内から文書が発見された。 現在この胎内文書は、世田谷区の重要文化財に指定されている。境内には吉田松陰と親しかった維新の志士儒者土屋蕭海の墓がある。

 参拝後、住職が留守のため、奉納経は郵送して貰うことにして、次の50番札所円乗院へ向かう。国士舘大学の脇を通り、烏山緑道を歩き、若林から環七通りに沿って北へ歩き、宮前橋交差点の少し先を右手に行ったところが50番札所円乗院だ。ちょっと遠回りをしたので勝国寺からおよそ2.0kmである。

第五十番札所



代永山 真勝寺 円乗院
御本尊  不動明王
開山  寛永2年(1625)
東京都世田谷区代田2−17−3

 円乗院の創建年代は不詳だが、寛永初期頃までに代田村村民の菩提寺として創建、寛永2年(1625)までには創建していたという。
 現本堂は昭和29年移建されたものであるが、その前身は台東区橋場総泉寺(秋田佐竹侯菩提寺)の旧本堂であった。狩野探信筆の襖絵(文政8年)などがあり、江戸後期の建築物と推測される。
 境内には数多くの睡蓮鉢が並び、さまざまな品種のハスが栽培されています。また、高野槇の枯木が立っていますが、これは昭和20年5月25日の空襲により焼けたもので、戦争の悲惨さを伝えるために保存されている。また、境内の一角にはひっそりとした庭園があり、鯉の泳ぐ池がある。


 参拝後、奉納経をいただき、北沢川緑道を歩き、茶沢通りを右に、そして代沢十字路交差点で淡島通りを左に行き、太子堂中の先を右に入り、コーシャハイム太子堂の脇を下ったところが51番札所円泉寺だ。円乗院からおよそ1.4km。

第五十一番札所



聖王山 法明院 円泉寺
御本尊  不動明王 聖徳太子
開山  賢栄上人  文禄4年(1595)
東京都世田谷区太子堂3−30−8

 円泉寺の草創は、遅くとも 南北朝時代 末期(〜1392)のころには、太子堂ならびに小堂(円泉寺前身・円泉坊)が結ばれていたものと推察され、 文禄4年(1595)、 賢惠(けんけい)大和尚によって中興がなされた。
 円泉寺の建立由来書によると、文禄1年(1592)賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東へ下った。文禄4年当地に来て一泊した時、夢中に聖徳太子が現れて、この地に安住することを告げたので、十一面観音像を安置する本堂と、聖徳太子を安置する太子堂を建立した。いらいこの地が拓かれて太子堂村と呼ばれるようになったといわれている。
 安政4年 (1857)不幸にも災禍に罹り諸堂宇を焼失、安政7年 には、檀信徒家の信施によって、本堂、太子堂、庫裡が再建されましたが、かつての豪壮な堂宇とは程遠く、明治の神仏分離令、廃仏毀釈運動などによって荒廃する時期もあったが、英尊大和尚の入山に伴い、檀家が結集して寺門を支えつづけ、昭和26年には「聖徳太子1330年奉讃記念」として太子堂廻廊大改修、昭和39年には本堂大修復がなされた。


 参拝後、奉納経をいただき、茶沢通りを三軒茶屋方面に歩き、途中の食事処で昼食。その後、玉川通りを横切り、水道局の前を通って、突き当りの財務省寮のところを左折すると左手が、52番札所西澄寺だ。円泉寺からおよそ1.6kmである。

第五十二番札所



日輪山 薬王院 西澄寺
御本尊  薬師如来
中興開山  宥秀上人  寛文12年(1672)寂
東京都世田谷区下馬2−11−6

 伝えによれば、弘法大師が諸国巡錫のこの地で黄金の薬師如来像を発見し、此処を聖地と定め薬師堂を建立し、その傍らに高野槇を植え根本深くに薬師如来像を埋めて蚊を封じ、旅立たれたという。
 是より数百年の後、天文2年(1533)河内国出身の隆光和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫、領主の吉良氏を頼り、この地に在った薬師堂を再興したのがはじまりで、西澄寺第一世開基とされている。江戸時代に中興したのは、徳川家の旗本、大久保六右衛門忠勝で当時の住僧は宥秀和尚「寛文12年(1672)寂」であった。
 山門は武家屋敷門で都霊宝の指定を受けている。大正11年、本堂の改築の時、港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門を移築したと伝えられている。番所に格子窓を設けるなど若干の変更があるが5〜10万右の大名の屋敷門の形式、構造、装飾等を備え、数少ない武家屋敷門の遺構として貴重である。


 参拝後、奉納経をいただき、53番札所金蔵院へ。西澄寺前の通りを環七通り方面に歩き、龍雲寺の脇を通って環七通りへ出て、野沢交差点で環七通りを渡り、世田谷区から目黒区に入る。
 柿の木坂通りを進み、駒沢通りを横切り、やくも文化通りを右に折れ、更に八雲十中通りを左折すると間もなく右手に53番札所金蔵院がある。氷川神社の隣である。西澄寺からおよそ2.9km。

第五十三番札所



氷川山 虚空蔵院 金蔵院
御本尊  大日如来
開山  不詳 年代不明
東京都目黒区八雲2−4−26

 金蔵院は、慶長5年(1600)頃に頼栄上人によって創建されたと伝えられている。古い記録としては享保年間(1716-1736)に俊海法師が本堂を建て直したことが残っている。もとは隣接の八雲氷川神社の別当寺で、明治7年(1874)に一旦は無住廃寺となったものの明治14年には再興されたという。


 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、54番札所満願寺へ。呑川緑道を歩き、目黒区から世田谷区に入ったところで左折し目黒通りに出て右折。環八通り方面に向かって歩き、とどろき陸橋のところを斜め右に入ると54番札所満願寺である。金蔵院よりおよそ2.4kmだ。

第五十四番札所



致航山 感応院 満願寺
御本尊  大日如来
開山  定栄上人  文明二年(1470)
東京都世田谷区等々力3−15−1

 満願寺は、吉良氏が開基となり、定栄和尚を開山として文明二年(1470)深沢の兎々呂城に創建、天文18年(1549)当地へ移転したという。慶安元年(1648)寺領13石の朱印状を拝領、近隣の多くの末寺を擁していた。
 本堂は宝暦13年(1763)に再建したが、昭和43年耐火建築に改築された。
 山門の額は細井広沢、本堂の額は広沢の子九皐の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川と号した。当代の代表的名筆家として知られている。

 参拝後、奉納経をいただき、、およそ0.2km程で等々力駅に到着。ここで解散とする。次回は第五十五番札所から

 
 今日もまたあいにくの雨模様。東急多摩川線沼部駅に10:00に集合。今回は大田区内の6つの札所と世田谷区鎌田の一か所の予定。まずは駅のすぐ近くにある55番札所の東光院へ。

第五十五番札所


有慶山 延命寺 東光院
御本尊 大日如来
開山  義賢和尚  元禄三年(1690)寂
東京都大田区田園調布本町35−8

 開創の年代は不明であるが、開山は義賢和尚と云う。
 東光院は多摩川園の浅間神社と浅からぬ関わりがある。浅間神社に祀られていた源頼朝の妻北条政子の守り本尊の観音菩薩像が、明治4年(1871)、新政府の政策による太政官令により、東光院に移された。その聖観音は寺宝になっている。
 昔は、この寺の側を次太夫堀-六郷用水が流れ、石橋があった。今は、用水跡を説明する案内板が建っているだけである。
 境内には、都内でも珍しい閻魔十王像が安置されている「閻魔堂」がある。


 参拝後、奉納経をいただき、56番札所密蔵院へ。多摩堤通りへ出て新幹線のガードをくぐるとすぐ左手が56番札所密蔵院である。

第五十六番札所



明楽山  森立寺 密蔵院
御本尊  大日如来
開山  曲亮法師  宝暦六年(1756)寂
東京都大田区田園調布南24−18

 開創の年代は不明だが、観音堂を起源とすれば鎌倉時代に遡ると考えられる。そして永正(1504〜1521)の頃、森一族の菩提寺が建立され、森立寺と称し観音堂を守護していした。 慶長末期には火災で本堂を焼失したが、当寺の有力檀徒森庄兵衛を始とする一族によって再建された。
 享保から宝暦にかけて15世典亮和上が、法流の開祖として寺門の興隆に努め、 明治になって31世定欣和上の時から寺院内外の整備がすすめられ、 32世定吽和上が昭和18年に現本堂を完成させた。
 境内には、庚申堂(塔頭の金剛尊院)が建っている。

 参拝後、奉納経をいただき、57番札所観蔵院へ。密蔵院の脇を通っている疎水が流れる遊歩道(六郷用水の跡)を歩き、西嶺町に入り左に回り込んでいくと57番札所観蔵院である。密蔵院からおよそ0.7km。

第五十七番札所



峯照山  正善寺 観蔵院
御本尊  大日如来
開山  不詳  年代不明
東京都大田区西嶺町22−19

 観蔵院の創建年代は不詳だが、隣接の鵜ノ木にある光明寺が真言宗寺院であった頃、その加行道場として創建したと伝えられている。鵜の木光明寺は寛喜年間(1321−1332)に浄土宗に改宗していることから、1332年以前に創建したと考えられる。
 慶長元年(1596)に示寂した宥忠法印が中興1世で、堂字を建立し、大日如来を本尊として安置した。
 そして中興3世順宥が三河国鳳来寺より勧請した薬師如来が”峯の薬師”として江戸時代に崇敬を集めたという。
 明治時代に一旦廃寺となったものの、大正11年(1922)6月に檀徒の熱望により再興、羽田の廃寺観蔵院の寺号をうけついで、観蔵院と称するようになった。


 参拝後、奉納経をいただき、58番札所増明院へ。疎水沿いの道へ戻り、環八通りに出るすぐ手前の細い道を右に入って行くと右手に増明院がある。観蔵院からおよそ0.6km。

第五十八番札所


青林山  金剛寺 増明院
御本尊  大日如来
開山  法印長誉  元禄年間(1688−1703)
東京都大田区鵜の木1−15−5

 増明院は、高野山より下向した長誉阿闍梨(元禄年間1688-1703没)が開山、青山因幡守(延宝7年1679年没)が開基となり創建したと伝えられる。


 参拝後、奉納経をいただき、60番札所長福寺へ。増明院前の通りを少し行き右に折れ、多摩堤通りと東急多摩川線を横切り、大型スーパー「Olympic」の前を通っていくと左手に長福寺がある。増明院からおよそ0.9km。

第六十番札所


長明山  長福寺
御本尊  観世音菩薩
開山  法印範宗  元禄十年(1697)寂
東京都大田区下丸子4−18−3

 歴代墳墓中に元禄10年(1697)2月3日に示寂した範宗のものがあるが、開山の年歴は不詳とある。寺伝によれば、最明寺時頼(北条時頼(1227〜1263))の草創といわれる本寺、西明寺と同じ頃に建立され、村民の観音信仰祈願所であったという。


 参拝後、奉納経をいただき、59番札所蓮光院へ。六所神社の脇の細い道を通っていくとすぐ左手に蓮光院がある。長福寺からは0.3kmだ。

第五十九番札所



寿福山  円満寺 蓮光院
御本尊  大日如来
中興開山  法印源清 天正二年(1574)寂
東京都大田区下丸子3−19−7

 蓮光院は源清(天正2年1574年寂)が中興開山したという。
 境内には備前池田家の表門であったと伝えられる武家屋敷門が山門として使用されている。
 村社六所神社および末社諏訪神社、天祖神社の別当寺として、村の行事一切をおこなっていた。
 境外仏堂に三体地蔵尊があるが、討死した新田義興の従臣3人を祀ったものといわれる。


 参拝後、奉納経をいただき、0.3km程のところの下丸子駅近くの中華料理屋で昼食。その後、61番札所吉祥院へ行くべく、多摩川線で多摩川駅へ行き、東横線に乗り換えさらに自由が丘で大井町線に乗り換え二子玉川駅まで行く。
 そこから多摩堤通りに沿って歩き、仙川を越えたところで右に折れ、砧南小の前を左に折れると突き当りが61番札所吉祥院だ。

第六十一番札所


東覚山(大聖山) 地蔵寺 吉祥院
御本尊  地蔵菩薩 不動明王
開山  行基  天平12年(740)
東京都世田谷区鎌田4−11

 吉祥院は、天平12年(740)行基菩薩が開基となり創建、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、良弁僧正が開山したと伝えられる。建武2年(1335)兵火により焼失、世田谷吉良氏が再興したものの没落とともに衰退、江戸期には無住となっていたものを、村人により再建されたという。

 参拝後、留守のため奉納経をいただくことができず、後日頂きに来ることにし、近くの、世田谷区鎌田図書館の喫茶室で一休みして解散。次回は第六十二番札所から。

          玉川八十八ヶ所霊場めぐり TOPへ      
inserted by FC2 system