玉川八十八ヶ所霊場めぐり

その3

 小雨がぱらつく中、JR南武線武蔵新城駅改札付近に10:00に集合。まずは29番札所安養院へ向かうのだが、駅から北に向かうのだが、地図を見間違え南に向かって歩いてしまい、10分ほど歩いたところで気が付き、駅まで戻り、北に向かって歩き、坂戸交差点で第三京浜の下をくぐると間もなく、29番札所安養院に着く。駅よりおよそ1.3kmだ。

第二十九番札所


御岳山 真性寺 安養院
御本尊 阿弥陀如来
開山 覚淳上人  慶長15年(1610)寂
神奈川県川崎市高津区坂戸2−14



 参拝後、奉納経をいただき、道順を考慮して、31番札所正福寺へ向かう。北東方向におよそ0・5kmほど歩き、府中街道を渡るとすぐ、31番札所正福寺だ。安養院からはおよそ0.7km。

第三十一番札所


白王山 正福寺
御本尊 大日如来
開山 法印快雅  天和2年(1682)寂
神奈川県川崎市高津区北見方2−13


 ちょっと変わった七福神の像がある。

 参拝後、奉納経をいただき、パスした30番札所明王院へ向かう。北へ向かって歩き、角に公園のある十字路を左折し、東高津小、小黒恵子童謡記念館の前を通るとすぐ明王院である。正福寺よりおよそ0.7km。

第三十番札所


諏訪山 明王院 圓能寺
御本尊 不動明王・大日如来
開山 不詳  年代不明
神奈川県川崎市高津区諏訪3−14

 明王院の縁起については不詳ながら、古くより当地にあったといい、良識という僧が慶長年間(1596-1615)に再建、寛文8年(1668)に寺号圓能寺から院号明王院を通称するようになったという。


 参拝後、奉納経をいただき、二子玉川駅へ。東急田園都市線二子新地駅前通りに出て、二子新地駅から二子橋を渡り東京都に入る(ここまでおよそ1.4km)。玉川高島屋内のレストランで昼食を摂り、その後、多摩堤通りの一本内側の道を歩き、第三京浜の手前から丸子川(次太夫掘)に沿って歩き、二子玉川駅よりおよそ1.9kmで、32番札所善養密寺であるが、その手前に、札所めぐりのメンバーのお宅があるので、ちょっとお寄りしてお茶を御馳走になる。

第三十二番札所



影光山 仏性院 善養密寺
御本尊  大日如来
開山  阿闍梨祐栄 慶長5年(1600)寂
東京都世田谷区野毛2−7−11

 新編武蔵風土記稿」によれば、昔深沢村からここに移され、鎮守野毛六所神社の神輿をいれる神輿堂や閻魔堂があったことが記されている。
昭和三十六年四月奈良唐招提寺様式の金堂が建立された。
 また境内にあるカヤの大木(高さ約18m、幹周約6m)は昭和三十九年に都の天然記念物に指定されている。



 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、等々力渓谷にある33番札所等々力不動尊へ。丸子川と谷沢川に沿って歩き、およそ1.0kmで等々力不動尊に到着だ。

第三十三番札所



瀧轟山 明王院 等々力不動尊
御本尊  不動明王
開山  不詳  年代不明
東京都世田谷区等々力1−22−47

 本尊は不動明王で真言宗智山派に属し満願寺の別院で、寺伝によれば、 1300年前推古帝の頃、役の行者(役の小角〉が霊夢を見、不動尊を彫られた。800年前、和歌山の根来寺の興教大師がある夜夢を見られ「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた。大師は不動尊を背負って、「調布の丘を経巡り、此地に来たり、澤泉を山頭より噴出するを見、併も山頭の辺り瑞雲霊愛雲建す。大師はその霊地なるを悟り、一宇を建立す。」「玉川栞」と、開基が物語られている。
 本堂は、江戸末期の建造である。拝殿は昭和27年、山門は、昭和43年8月、満願寺改築の折移築したものである。

 参拝後、奉納経をいただき、等々力渓谷を散策して、玉川野毛町公園にある野毛大塚古墳を見学し、本日は終了とし解散する。次回は三十四番札所から


 生憎の雨だが、東急大井町線上野毛駅に10時に集まり、まずは駅に近い36番札所の覺願寺へ。環八道路を渡り、二つ目の角を左に曲がると到着。今日は彼岸に入っているので、法要の準備がされている。

第三十六番札所



自性山 聖徳院 覚願寺
御本尊  大日如来
開山  不詳  年代不明
東京都世田谷区上野毛2−15−15

 覚願寺の創建年代は不詳ながら、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」の記載や、覚願寺檀家墓碑の記載から天文年間(1532-1555)以前の創建と考えられる。当初は台地下にあり、また本尊は聖徳太子像だったという。


 参拝後、奉納経をいただき、35番札所の金剛寺へ。環八道路を渡り、上野毛駅前を通り過ぎ、上野毛一丁目の交差点手前を右に折れ暫らく歩くと金剛寺に到着だ。覚願寺からおよそ0.8km。

第三十五番札所



東陽山 薬王院 金剛寺
御本尊  大日如来
開山  頼栄上人 年代不明
東京都世田谷区中町2−20−1


 弘安七年(1284)聖空上人が薬師如来を勧請、一宇を建立したのに始まり、野良田の北向薬師と称し坂東七薬師の一として信仰を集めた。この地に土着帰農した吉良の遺臣粕谷遠江守が入道して心臾道沙弥と称し、慶長年間(1598-1614)頼栄訪印を開山第一世として、金剛寺を創建し、一族の菩提寺とした。

 参拝後、奉納経をいただき、34番札所の医王寺へ向かう。玉川警察署裏から玉川消防署、玉川郵便局の前を通り、駒沢通りの深沢不動交差点を左折すると右手に医王寺があり、金剛寺からおよそ1.5kmだ。

第三十四番札所



薬王山 宝寿院 医王寺
御本尊  大日如来
開基 谷岡又左衛門重光 元禄4年(1691)
東京都世田谷区深沢6-14-2

 医王寺は、谷岡又左衝門重久(元禄4年1691年寂)が開基、僧正霊応大和尚が開山となり創建したという。宝暦11年(1761)本堂より火を発し、薬師堂を除く外は全部烏有に帰した。時の憲勝和尚は責任を感じて等空と改名し、付近に等空庵という庵を結び、毎日観音像を背負い再興のため托鉢をなすこと3年、付近の住民の協力を得て再建された。


 参拝後、奉納経をいただき、用賀駅へ向かう。駒沢通りを西に向かい、中町四丁目交差点を右折し用賀中町通りを用賀へ向け歩く。玉川通りを越え、39番札所眞福寺を参拝してから昼食にすることに。医王寺からおよそ2.3km。

第三十九番札所



揄伽山 真如院 真福寺
御本尊  大日如来
開山  法印宗円 天正6年(1578)寂
東京都世田谷区用賀4−14−4

 真福寺は、用賀村を開拓した飯田図書(花巌院法誉善慶居士・天正6年1578年没)が開基、法印宗円和尚(天正6年1578年寂)が開山となり創建したという。
 飯田帯刀・同図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、永禄・元亀年間(1558-1572)にこの用賀村にきて土着したといわれている。しかし用賀に土着してからは非常に勢力をもつようになり、苗字・帯万を許され彦根藩の代官職をつとめていた。
 享和3年(1803)5月に本堂・庫裡とも焼失、古文書も失ったが後に再建された。昭和28年~29年に赤い山門を新築、昭和37年~41年にかけて本堂の修理、鉄筋2階建の庫裡が新築され、庫裡と本堂の聞には他の寺ではみられない太鼓橋、泉水がつくられている。

 参拝後、奉納経をいただき、用賀駅前で昼食後、40番札所長円寺へ。首都高速用賀出入口の下をくぐり、環八通りを横切り、フラワーランド(正式名称:区立瀬田農業公園)の横を通りしばらく歩き左に折れると長円寺だ。用賀の駅よりおよそ1.2km。

第四十番札所


岡本山 長円寺
御本尊  不動明王
中興開山  法印快誉 元文三年(1738)寂
東京都世田谷区岡本1−20−1

 長円寺の創建年代は不詳だが、元禄年間(1688-1703)八幡下から当地へ移転、快誉(元文3年1738年寂)が中興したという。現在の堂宇は昭和41年5月の建築になる。
 境内に門人らが建てた榎本金六の墓がある。金六は筑後(福岡県〉久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を聞き多くの門人を指導した。彼に学んだものはかなり広範囲で,横根村瀬田村用賀村喜多見村大蔵村経堂村奥沢村等々力村鎌田村等世田谷南西部9ケ村に及んでいる。


 参拝後、奉納経をいただき、37番札所慈眼寺へ。聖ドミニコ学園の脇を通り、玉川病院の裏手を歩き、およそ0.9km程で慈眼寺に着く。

第三十七番札所


喜楽山 教令院 慈眼寺
御本尊  大日如来
開山  法印定音  正中元年(1324年)寂
東京都世田谷区瀬田4−10−3

 徳治元年(1306)法印定音が巡錫の途上、この地を通ったとき里人が滝ケ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷士長崎四郎左衛門に告げ、天の奇異なのを思い、定音は小堂を建て、これをおまつりした。
 崎四郎左衝門(長崎家初代の重光法名、行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり、崖の上にうつし、東向7間の堂をたて本尊大日如乗を安置し、慈眼寺と称し、またこの頃、真言宗になったといわれている。



 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、38番札所大空閣寺へ。環八通り方面へ向かい、0.8km程で到着だ。

第三十八番札所


如意山 大空閣寺
御本尊  虚空蔵菩薩
開山  年代不明
東京都世田谷区瀬田4−21−15

  大空閣寺は、大正天皇ご即位記念として、大正元年虚空蔵行者聖慶大僧正の開基で昭和10年旧豊多摩郡戸塚町より現在地に移転した。
 現在の鉄筋コンクリート造りの本堂は、昭和42年の建築であり、丑、寅年の守本尊として東都唯一の虚空蔵霊場である。

 参拝後、奉納経をいただき、環八通りを越え、およそ0.9km程で用賀駅に到着。ここで解散とする。次回は四十一番札所から。


 今回もまた生憎の雨だ。京王線千歳烏山駅に10:00に集合、まずは44番札所の多聞院へ。千歳烏山駅前から北へ向かい、甲州街道を渡り、中央高速道の下をくぐり烏山寺町通りに入ると間もなく到着、千歳烏山駅よりおよそ1.1kmだ。

第四十四番札所



金剛山 悲願寺 多聞院
御本尊   地蔵菩薩
開山  法印述誉  寛永5年(1628)寂
東京都世田谷区北烏山4−12−1

 多聞院は、述誉上人が開山、村内名主傳右衛門先祖與兵衛(法名天雪舊満)が開基となり寛永5年(1628)新宿角筈村に創建されたが戦時中の空襲により焼失し、昭和24年に墓地を移転、29年に本堂庫裡を再建した。
 本堂前にはインドで作られ、インド政府より奈良壺阪寺に送られ、壺阪寺からさらに寄贈されたという「天竺渡来石彫涅槃図」がある。

     

 また、本堂前の桜は烏山界隈一の大木で、ちょうど満開だった。



 参拝後、奉納経をいただき、ちょっと寄り道をし、寺町の玄照寺の綺麗な枝垂桜を鑑賞した後、来た道を千歳烏山駅まで戻る。千歳烏山駅を通り越し、八軒通りを南に歩き、榎交差点を右折するとすぐ右手が41番札所安穏寺だ。駅よりおよそ1.4kmである。

第四十一番札所



瞬栄山 行王院 安穏寺
御本尊  不動明王
開山  元光上人  寛永5年(1628)寂
東京都世田谷区上祖師谷2−3−6

 安穏寺は、吉岡九郎左衛門が開基となり元禄年間(1688〜1703)に創建、等々力の満願寺の権大僧都元光が寛政年(1789〜1800)に中興したといいます。
 明治維新の前後18年余り無住となり東覚院の兼務寺となった。この頃、寺の荒廃は甚だしく博徒が出入りする程のあれようであった。明治18年には風禍により本堂が倒壊したが大正14年まで再建されず庫裡を本堂として過したという。

 留守のため、奉納経を頂けず、後日頂きに来ることにして参拝だけして次の42番札所東覺院へ向かう。都道118号線を環八通り方面に歩き、蘆花恒春園の花の丘公園に、高遠のコヒガンザクラが咲いているので、ちょっと寄り道をして見ていく。公園からちょっと戻りガスタンクの前を南へ少し行ったところが東覺院だ。寄り道をしなければ安穏寺からおよそ1.4kmである。

第四十二番札所



青林山 東覚院
御本尊  薬師如来
開山  月空上人 承応1年(1652)
東京都世田谷区千歳台4-11-11

 東覚院は、僧月空が正応元年(1288)庵室を建立、永禄元年(1558)大願寺と号したといい、その後青林山東覚院薬王寺と改めたという。
 明治19年に火災にあい山門を残し全て焼失したが幸に本尊・木像閻魔大王像並びに十王像などは難をまぬがれた。本堂は明治43年、閻魔堂は昭和6年に再建された。山門は約330年前に福田甚左衛門が建立奉納したものである。


 参拝後、奉納経をいただき、環八通りへ出て、環八通りに面したファミレスで昼食。食後はレストランのすぐ裏手にある43番札所寶性寺へ。

第四十三番札所



波羅密山 寶性寺
御本尊  大日如来
開山  不詳 年代不明
東京都世田谷区船橋4−39−32

 寶性寺の創建年代等は不詳ながら、寛永年間(1624-1645)の創建であろうといわれているが、元禄年間の品々も若干残置しており、墓石あるいは元禄地蔵尊も残っている。天保年間より明治中頃まで頽廃のまま住職断絶して、隣接の東覚院の住職が兼務管理していた。東覚院火災の際、当宝性寺の古記録及び過去帳など一切焼失したので、的確な史実が判明していない。

 参拝後、奉納経をいただき、船橋中学、希望丘小の前から荒玉水道道路に出て、桜上水方面に歩き、桜上水交番前交差点の少し手前を右に折れ、少し進むと45番札所密蔵院だ。寶性寺からおよそ1.6kmである。

第四十五番札所


幽谿山 観音寺 密蔵院
御本尊  不動明王
開山  頼慶法師 慶長3年(1598)
東京都世田谷区桜上水2-24-6

 下野国都賀郡水代から移住してきた榎本河内重泰の養子但馬定宗が開基となり、都賀郡から来た僧頼慶法師を開山として慶長3年(1598)創建したという。江戸期には上北沢勝利八幡神社の別当を務めていた。現在の本堂は、延享1年(1744)の建立で、村内にあった安楽寺が明治8年に合併された。
 本堂の前に観音堂があり、その中に西国,坂東,秩父の各観音霊場に祀られる札所本尊に由来したもので、千手観音、如意輪観音、馬頭観音などあらゆる姿の観音菩薩像がおさめられている。なお閻魔堂、位牌堂などあったが、今はない。


 参拝後、奉納経をいただき、46番札所西福寺へ。緑丘中の前を通り、新しく造られた世田谷線松原駅へつづく広い道を松原駅方面に400mほど歩くと右手に西福寺がある。

第四十六番札所


光林山 持明院 西福寺
御本尊  薬師如来
開山  継尊法印  天正12年(1584)
東京都世田谷区赤堤3-28-29

 西福寺は、服部頼母増祐が開基となり、継尊法印を開山として、天正12年(1584)創建したという。本堂にはもと本尊不動明王の像を安置していたが、文化年間には、本堂、本尊、薬師堂ともに祝融の災にあい、焼失してしまったので、今はもと薬師堂にあった薬師如来の立像を本尊としている。現在の本堂は現住の7代前の住職が建てたもので、欄間の彫刻だけは焼失前のものであるという。
 入口には金剛密迹両力士(仁王尊)を安置した仁王門がある。この仁王尊は正徳1年(1711)他から移したもので、作者不明であるが、鎌倉時代の檜の寄木造といわれる。



 参拝後、奉納経をいただき、今日最後の目的寺、47番札所善性寺へ。松原駅から世田谷線に沿って山下方面に向かい、赤堤通りで反対側にわたり少し進み左にカーブした右手に善性寺の裏門があるので、そこから入る。西福寺よりおよそ1.1kmだ。

第四十七番札所


赤堤山 善性寺
御本尊  不動明王
開山  不詳  年代不明
東京都世田谷区豪徳寺1-55-23

  善性寺は、勝国寺第九世住職日宥が良弁僧正作の不動尊像を得て、正徳5年(1715)当地に赤堤山善性寺と号して創建したという。
 本堂には、関東藤沢の里で鷲にさらわれ、奈良東大寺の門前の杉につれさられて有名になった良弁僧正(相模国大山寺の開山でもある)が関東に降ったさいに、この地に立ち寄られ、庵をむすび彫刻したと伝えられる不動明王の像が安置されている。

 参拝後、奉納経をいただき、、およそ0.3km程で豪徳寺駅に到着。ここで解散とする。次回は四十八番札所から。


          玉川八十八ヶ所霊場めぐり TOPへ       
inserted by FC2 system