江戸三十三観音霊場めぐり

その3

 地下鉄日比谷線神谷町駅に10:00に集合。今回の参加者は4名だ。まずは二十番札所の天徳寺へ。3番出口を出て桜田通りの裏通りを、愛宕神社方面に歩き、愛宕山のトンネルの手前右手に天徳寺がある。神谷町の駅からおよそ0.3km。

第二十番札所   光明山 和合院 天徳寺


   宗派  浄土宗
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 聖観世音菩薩
   創建  三蓮社縁譽稱念上人 天文2年(1533)
   東京都港区虎ノ門3-13-6

 創建は天文2年(1533)と古く、江戸城紅葉山に庵を開いたのが始まりだという。
その後、天正13年(1585)霞ヶ関に移転、更に江戸城拡張のため、慶長16年(1611)現在地に移転したと言われている。 江戸時代には江戸浄土宗四ヶ寺の一つとして寺格も高く、愛宕山西側一帯を寺域とするほどの大きな寺院で、元和元年(1615)家康公より50石の、元和9年(1623)に二代秀忠公より100石の朱印を賜った御朱印寺だという。
 境内右手に木造の建物が建っているがこれは、大正12年(1923)の関東大震災により堂宇が焼失し、その直後に建てた仮本堂である。
 境内西側奥に二層八角の美しい形をした堂宇が建っている。これが、平成17年(2005)に新築された本堂である。
 仮本堂と相対した位置にある鐘楼は平成19年(2007)の建立とあるから、まだ新しい鐘楼だが、梵鐘は寛永12年(1635)に鋳造されたもので、23区内に現存する梵鐘としては最古のものだそうである。
東京都台東区浅草2-3-1
 
  
       本   堂                  仮 本 堂            境内に立つ聖観世音菩薩像

 参拝後、ご朱印を頂き、二十八番札所の金地院へ。金地院の塀に沿って神谷町駅方面に歩き、大通りを左へ。芝学園下交差点を右に折れ、すぐ突き当りを右に、芝高校と機械振興会館に沿って道なりに歩き突き当りを左に折れると、東京タワーが目の前に現れ、その前に金地院がある。天徳治よりおよそ0.9km。

第二十八番札所   勝林山 金地院
   宗派  臨済宗南禅寺派
   本尊  聖観世音菩薩
   札所本尊 聖観世音菩薩
   創建  特賜圓照本光国師以心崇伝和尚 元和5年(1619)
   東京都港区芝公園3-5-4

 金地院は、コ川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永15年(1638)三大将軍家光公の命により現在地へ移転したという。
 以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたという。
 寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けている。
  

 参拝後、ご朱印を頂き、二十一番札所の増上寺へ。東京タワーを右に見て坂を下り、東京タワー前交差点で道路を横断、道路を渡った右側はもう増上寺の境内である。 左手の東京プリンスホテルと増上寺の間の道を、東京タワーを背にして少し歩き境内へ入る。金地院よりおよそ0.4km。

第二十一番札所   三縁山 広度院 増上寺


   宗派  浄土宗 大本山
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 西向聖観世音菩薩
   開山  浄土宗第八祖聖聡上人 明徳4年(1393)
   東京都港区芝公園4-7-35

 増上寺は、明徳4年(1393)浄土宗第八祖聖聡上人の開基により開かれた寺院で、開山当初は現在の千代田区平河町付近にあったが、徳川家康公の帰依を受け日比谷に移転した後、慶長3年(1598)江戸城の拡張に伴い現在地に移った。
 江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林の筆頭として、京都・知恩院に並ぶ位置を占めていたといい、浄土宗七大本山の一つである。
 昭和49年(1974)に再建された、大殿と称される本堂は、浄土宗大本山の根本道場としてあらゆる儀式法要が行われる堂宇である。
 増上寺の表の顔として、威風堂々とした姿の三解脱門(三門)は、元和八年(1622)に再建されたもので、増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことである。
 札所本尊の西向聖観音は、本堂に向かって右手の観音堂に祀られており、本尊阿弥陀如来は東向きなのに対し、この観音様は西向きに立っておられる。
 安国殿の後ろには徳川将軍家の墓所がある。固く閉ざされた「鋳抜門」と呼ばれる門があり、この門は旧国宝で、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものである。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。
 廟所には、15人の将軍の内、二代将軍秀忠公をはじめとする6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)などの墓が設けられている。
 徳川家霊廟前に4体の菩薩像が立っている。普賢・地蔵・虚空蔵・弥勒の四菩薩で、正嘉2年(1258)の作であるという。
 
三解脱門(三門)                       大殿(本堂)と安国殿(右)
 
観 音 堂                            西向聖観世音菩薩
 
徳川家霊廟(鋳抜門)                           四 菩 薩 像   
 
 参拝後、ご朱印を頂き、境内にある徳川将軍家の墓所を門前からお参りし、二十六番札所の済海寺へ向かう。日比谷通りを南に歩き、第一京浜を右折し品川方面に歩く。道を間違えたようで、先に二十七番札所の道往寺に行くことにする。泉岳寺駅の手前、高輪大木戸跡の信号の少し先を右に細い道を入ると、突き当りが道往寺である。増上寺よりおよそ2.4km。

第二十七番札所   来迎山 道往寺

   宗派  浄土宗
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 聖観世音菩薩・千手観世音菩薩
   開基  寛文年間(1661年−73年)
   東京都港区高輪2-16-13

 道往寺は、江戸期に西方三十三所札所の一つとして信仰を集めたお寺で、二十一番は千手観世音菩薩で、天文元年(1532)斎藤氏彫付という銘記があり、もう一体は二十二番聖観世音菩薩で、恵心僧都作と伝えられるが、江戸札所では二十七番になっている。 
 道往寺の一帯は、かつて東京湾に面した高台で、江戸時代後期には「廿六夜待ち」の月の名所として人気を集めていたという。
 東京大空襲で、道往寺は庫裡は焼けたものの本堂は戦火を免れがたが、老朽化のため平成25年(2013)、本堂の大規模立て替え工事と、観音堂、納骨堂の新設が行われた。
 観音堂には、札所本尊の聖観世音菩薩・千手観世音菩薩を中心に御前立像、西方三十三観音霊場各所の札所本尊の像が一堂に祀られている。
 
 
          観 音 堂                   札所本尊(聖観世音菩薩・千手観世音菩薩)

 参拝後、ご朱印を頂き、二十六番札所の済海寺へ向かう。伊皿子坂を上り、伊皿子交差点を右に折れ暫らく歩くと右手に亀塚公園がありその先が済海寺だ。道往寺からおよそ0.6km。

第二十六番札所   周光山 長寿院 済海寺

   宗派  浄土宗
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 亀塚正観世音菩薩
   開山  法誉上人念無和尚(寛永3年1626寂) 
   開基  牧野駿河守忠成(法名廣暢院殿教套心鈬威堯大居士) 元和7年(1621)
   東京都港区三田4-16-23

 済海寺の開基は越後長岡藩主 牧野駿河守忠成で、創建以降牧野家の菩提寺となったとのことである。
 本堂・庫裏は、平成9年に改築された近代的な建物である。観音堂は、門を入って左手の木造の小さな小屋で、立派な本堂とは対照的だ。
 門を入った左手に「都旧跡 最初のフランス公使宿館跡」と刻まれた石標と看板が立っている。日仏修好通商条約が締結された翌年の安政6年(1859)、フランス公使館がここに設置されることになり、明治3年(1870)公使館が引払いとなるまで、済海寺の書院・庫裡が宿館として使用されたのである。
 
 
  観 音 堂                         最初のフランス公使宿館跡

 参拝後、ご朱印を頂き、二十五番札所の魚籃寺へ。伊皿子交差点まで戻り、右折し魚籃坂を下ると右手に魚籃寺がある。済海寺からおよそ0.5kmだ。

第二十五番札所   三田山 水月院 魚籃寺

   宗派  浄土宗
   本尊  魚籃観世音菩薩
   札所本尊 魚籃観世音菩薩
   創建  法誉上人 元和3年(1617)
   東京都港区三田4-8-34

 魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和3年(1617)創建、寛永7年(1630)三田に移転したというす。法誉上人の弟子称誉上人が承応元年(1652)観音堂を創建して魚籃観世音菩薩を祀り一寺となったという。
 中国唐の時代、魚を扱う美女がおり、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探し、めでたくこの3つの経典を暗誦する者と結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされる。
 魚藍坂の名称は、坂の途中にあるこの寺に、魚藍観音が祀られている事から付けられたと言われている。
 
 
 参拝後、ご朱印を頂き、二十九番札所の高野山東京別院へ向かうのだが、ちょっと寄り道をして泉岳寺をお参りすることに。魚籃坂を上り、伊皿子坂を下って、第一京浜に出る手前を右に入ると右手が泉岳寺である。
 泉岳寺は播州赤穂の藩主・浅野家の菩提寺の曹洞宗寺院で、赤穂事件の主役である浅野内匠頭長矩と、大石内蔵助良雄以下の四十七士の墓があることで知られている。
 本堂と、四十七士の墓をお参りした後、第一京浜に出て品川方面に歩き、高輪二丁目信号を右に入り、桂坂を上ると左手に高野山東京別院がある。魚籃寺から泉岳寺を経由しておよそ1.5kmだ。

第二十九番札所   高野山東京別院


   宗派  高野山真言宗
   本尊  弘法大師
   札所本尊 聖観世音菩薩
   創建  延宝元年(1673)
   東京都港区高輪3-15-18

 江戸に徳川幕府が開かれた際に高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として慶長年間日輪寺内に開創、明暦元年(1655)芝二本榎の地を下賜され、延宝元年(1673)「高野山江戸在番所高野寺」として建立されたという。
 一時期寺号を長寿寺と号していたが、昭和2年(1927)高野山東京別院と改称した。
 山門を入ると、広い境内が広がっており、正面に大きな本堂が建っている。昭和63年(1988)の落慶というから、寺院の建造物としてはまだ新しい。
 「遍照殿」の扁額が架かる入口を入ると、広い堂内の奥に本尊弘法大師坐像が安置され、右側に札所本尊の聖観世音菩薩が安置されている。
 また、境内には修行大師像と四国八十八ヵ所お砂踏み霊場がある。

 
 
 
本堂内の本尊 弘法大師坐像                   札所本尊の聖観世音菩薩
 
   本堂横の観音像                    四国八十八ヵ所お砂踏み霊場
 
 参拝後、ご朱印を頂き、東京別院まえの二本榎通りを南に品川方面に暫らく歩き、グランドプリンス新高輪ホテルの角を左に曲がり品川駅前に出て解散。

 東急世田谷線三軒茶屋駅出口に10:00に5人が集合。まずは三十二番札所の世田谷観音寺へ。三軒茶屋交差点から玉川通りを瀬田方面に歩き、すぐの信号を左折、栄通りを暫らく道なりに歩き、蛇崩川緑道を越えた先、明薬通りを左折。少し歩いた右側が世田谷観音寺だ。三軒茶屋駅からおよそ1.3km。

第三十二番札所   世田谷山 観音寺  通称 世田谷観音


   宗派  天台宗
   本尊  聖観世音菩薩
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  大僧正睦賢和尚 昭和25年(1950)
   東京都世田谷区下馬4-9-4

 世田谷山観音寺の創建は昭和25年で区内で最も新しい寺である。開山の大僧正睦賢和尚はもと事業家であったが、感ずるところあって私財を投じて設立した。
 観音堂には、聖観音菩薩(1000年以上昔のものといわれるが年代不詳)の他、日光菩薩、月光菩薩(天平時代の作)、十六羅漢など安置されている。また、不動堂(六角堂)には、旧国宝(現国指定重要文化財)の大聖不動明王と八大童子、羅漢などを安置、不動明王は運慶の孫の康円の作、八大童子を伴った不動明王は関東随ーといわれている。
 本堂左の特攻観音堂には、本尊の特攻観音として大和法隆寺の夢たがえ観音を模作した2体が安置され、太平洋戦争で散った特攻隊員4704名の霊が祀られている。また、阿弥陀堂は金閣を模した3階建で、富山より移築したもので、阿弥陀、羅漢、韋駄天、地蔵などを祀る。
東京都台東区浅草2-3-1
 
 
本堂(右)と特攻観音堂(左)                   御本尊の聖観世音菩薩像
 
不 動 堂                              阿 弥 陀 堂

 参拝後、ご朱印を頂き、番外札所海雲寺へ向かう。明薬通りを暫らく歩き、突き当りの下馬五丁目南交差点を右に、そして、駒沢通りを越え、学芸大学駅まで歩く。ここまでおよそ1.3km。そこから電車で大井町まで移動。大井町駅からゼームス坂上を過ぎた先で池上通りを左へ。第一京浜を横切り、青物横丁駅のところを右に狭い道を海雲寺に沿って歩き旧東海道に出たところを左に折れた左手が海雲寺だ。大井町駅よりおよそ1.0kmだ。

番外札所  竜吟山 瑞林院 海雲寺  通称 千躰荒神

   宗派  曹洞宗
   本尊  十一面観世音菩薩
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開基  僧不山 建長3年(1251)
   東京都品川区南品川3-5-21

 海雲寺は、はじめは庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺(かいあんじ)境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観世音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っている。
 千躰荒神像は、インドの毘首羯摩作と伝えられ、古く肥後国天草郡荒神ヶ原にあったが、鍋島直澄が島原の乱出陣時に戦勝祈願したところ、千躰の神兵に助太刀され大きな武勲を得たといい、江戸高輪二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座させたが、明和7年(1770)この寺に勧請された。江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきた。
 千躰荒神堂奉納扁額は、1861年(文久元年)のガラス製雌雄二鶏図、1935年(昭和10年)の広沢虎造夫妻奉納の文字額など全27面があり、品川区有形民俗文化財に指定されている。
 
 
  千躰荒神堂                          千躰荒神堂奉納扁額

 参拝後、ご朱印を頂き、海雲寺の隣にある三十一番札所品川寺へ。

第三十一番札所   海照山 普門院 品川寺


   宗派  浄土宗 大本山
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 西向聖観世音菩薩
   開山  浄土宗第八祖聖聡上人 明徳4年(1393)
   東京都港区芝公園4-7-35

 品川寺は、大同年間(806〜810)に開創された品川で最も古いお寺で、長禄元年(1457)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。
 江戸時代を通し、本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の3つを、お寺の三宝として、大切にし、町の人々の深い信仰と、東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛された。
 梵鐘は、明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出している。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていたがスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていて、昭和5年(1930)、同市の好意により品川寺に返還されたものである。
 前の道路(旧東海道)に面している、江戸六地蔵の一つ、第一番の地蔵菩薩像は、青銅製で座高2.75m。宝永5年(1708)に寄進された像で、神田鍋町(現千代田区鍛冶町)の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造されたものだそうである。
 
 
鐘   楼                            地蔵菩薩像
 
 参拝後、ご朱印を頂き、三十番札所一心寺へ向かう。旧東海道を北に品川方面に暫らく歩き、目黒川に架かる品川橋を渡り、山手通りを横切り、品川宿本陣跡を過ぎるとすぐ右手に一心寺がある。品川寺よりおよそ1.3km。

第三十番札所   豊盛山 延命院 一心寺
   宗派  真言宗智山派
   本尊  不動明王
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  大老井伊直弼 安政2年(1855)
   東京都品川区北品川2-4-18

 一心寺は大老井伊直弼により開山され、町民代表等によって建立されたと伝えられている。その後、火災により焼失したが、明治8年(1884)再興されそして昭和に移り、中僧正弘道大和尚により成田山分身の不動明王を本尊とし中興された。以来、延命・商売繁盛にご利益があるとして信仰を集めている。
 堂内には、本尊不動明王、札所本尊の聖観世音菩薩像、東海七福神の寿老人などが安置されている。

 

 参拝後、ご朱印を頂き、三十三観音めぐりの最終の寺、三十三番札所瀧泉寺へ向かう。山手通りまで戻り、右に折れ、新馬場駅と第一京浜を越えたところのバス停、新馬場駅前からバスにて不動尊参道まで移動。バス停のすぐ先を左に折れ、道なりに歩いて行くと右手が瀧泉寺だ。一心寺から新馬場駅前までおよそ0.6km、不動尊参道から瀧泉寺まではおよそ0.3km。

第三十三番札所   泰叡山 瀧泉寺  通称 目黒不動


   宗派  天台宗
   本尊  不動明王
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  慈覚大師 大同3年(808)
   東京都目黒区下目黒3-20-26

 龍泉寺は大同3年(808)に慈覚大師が開創したと伝えられ、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて 日本三大不動の一つに上げられているす。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の保護を受け、江戸五色不動の目黒不動、江戸の三富(本寺と、湯島天神、谷中感應寺[現天王寺])の一つに数えられたという。
 目黒不動尊縁起によれば「滋覚大師が大同3年(808年)比叡山に向かう途中目黒で宿をとった。その時、不動明王の夢を見たのでその像を彫り、安置した。それが寺の始まりである。」という。その後大師は天安2年(858年)に堂宇を造営し、自らの手で「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」を棟牘に記した。そこから寺号を「瀧泉寺」と称するようになり、また、貞観2年(860年)に清和天皇より「泰叡」の勅額を賜わり、山号を「泰叡山」と称するようになった。
 墓地には、さつまいもの栽培を広めた食料の恩人で、蘭学者の青木昆陽の墓がある。

 これで江戸三十三観音結願だ!

 
 
 
   観 音 堂                         御本尊の聖観世音菩薩像
 
阿弥陀堂                             地 蔵 堂
 

 銅造大日如来像                            役行者を祀る祠像

 参拝後、ご朱印を頂き、参道にある老舗蕎麦屋で昼食兼簡単な打ち上げをして解散。


            江戸三十三観音霊場めぐり TOPへ           

inserted by FC2 system