江戸三十三観音霊場めぐり

その2

 文京区春日町交差点春日交番前に10:00に集合。今回の参加者は7名だ。まずは十二番札所の伝通院へ。春日町交差点から春日通りを大塚方面に暫らく歩き、伝通院前交差点を右に曲がると、右手に、「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」で知られる浪越徳治郎さんが設立した「浪越指圧治療センター」があり、通りの正面が伝通院である。春日町交差点からおよそ0.8km。

第十二番札所   無量山 傳通院 寿経寺
   宗派  浄土宗
   本尊  阿弥陀如来
   札所本尊 無量観世音菩薩
   開山  浄土宗第七祖了誉聖冏上人 応永22年(1415)
   東京都文京区小石川3-14-6

 傳通院は浄土宗中興の祖了誉聖冏上人が応永22年(1415)に小石川極楽水に創建、慶長8年(1603)徳川家康公の生母於大の方(法名:傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼)埋葬に際して寺を当地に移して再興、増上寺源誉上人が兼務したという。浄土宗関東十八檀林(僧の学問修行所)のひとつ、増上寺の次席で、830石の朱印状を拝領、徳川家の菩提所となり、千姫や孝子の方、於奈津の方、初姫など徳川家の子女たちが埋葬されている。東京都台東区浅草2-3-1
 
  
                       於大の方の墓                千姫の墓

 参拝後、ご朱印を頂き、十三番札所護国寺へ向かう。春日通りへ出て右折し、大塚方面に暫らく歩き、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前を過ぎ、跡見学園の先を左折、お茶の水女子大の脇を通り、音羽通りへ出て右折、その少し先右側に、TVで放映され一躍有名になった豆大福の群林堂がある。今日も行列ができていたが、我々も並んで豆大福を買う。
 ここからすぐの突き当りが護国寺である。傳通院よりおよそ2.5kmだ。大きな門をくぐり、途中に朱塗りの門のある長い石段を上ると正面に本堂がある。


第十三番札所   神齢山 悉地院 護国寺


   宗派  真言宗豊山派
   本尊  如意輪観世音菩薩
   札所本尊 如意輪観世音菩薩
   開山  亮賢僧正 天和元年(1681)
   東京都文京区大塚5-40-1

 護国寺は、天和元年(1681)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺で、江戸幕府から寺領1200石の御朱印状を拝領、真言宗豊山派の大本山である。
 堂宇は天和2年(1682)完成、同3年には桂昌院が初めて参詣された。現在の観音堂(本堂)は元禄10年(1697)に完成、元禄時代の建築工芸の粋を集め結実した大観音堂であり、その華麗さ雄大さは都下随一と賞されている。
 明治期以降徳川家との関係が絶たれ、一般人の墓所が造成された。三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信などが眠っている。
 元禄時代の本堂、昭和3年に移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されている。
 
 
 

 参拝後、ご朱印を頂き、十四番札所金乘院へ向かう。護国寺前から不忍通りを目白方面に歩き、日本女子大の先、目白台二交差点で目白通りを横切り、富士見坂を下ったところで右に折れ少し歩くと金乘院だ。金乘院の門のある辺りは、昔の奥州街道の宿坂関という関所があったところで、金乘院脇の通りは宿坂通りという名が付いている。護国寺よりおよそ1.4km。

第十四番札所   如意山 金乘院 慈眼寺  通称 目白不動


   宗派  真言宗豊山派
   本尊  聖観世音菩薩
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  開山永順 天正年間(1573-92)
   東京都豊島区高田2-12-39

 金乘院は、天正年間(1573-92)に開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが創建とされる。第二次世界大戦で焼失した目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)を合寺している。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当であったが、昭和20年4月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失した。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されたものである。
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和4年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にあったが、昭和20年5月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移した。
 目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれている。
 墓地には槍術の達人丸はし忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物がある。
 
 
目白不動堂                                 鐔 塚
 
 参拝後、ご朱印を頂き、十五番札所放生寺へ向かう。金乘院から宿坂通りを南に少し歩くと門前に、「名作怪談乳房榎ゆかりの地」という立札の立つ南蔵院という寺がある。その前を通り少し行き、神田川に架かる面影橋を渡り、都電の走る新目白通りを左折、都電に沿って歩き、早稲田駅のところで右に折れ大隈通りに入り、大隈講堂の前から早稲田大に沿い馬場下町に向かう。
 途中、創業1905年という老舗洋食レストラン「高田牧舎」で昼食を摂った後、馬場下町交差点角にある放生寺を参拝する。金乘院からおよそ1.5km。

第十五番札所   光松山 威盛院 放生寺


   宗派  高野山真言宗
   本尊  聖観世音菩薩
   札所本尊 聖観世音菩薩
   開山  威盛院権大僧都法印良昌上人 寛永十八年(1641)
   東京都新宿区西早稲田2-1-14

 放生寺は良昌上人が徳川家光の生誕と告げる霊夢を寛永16年に夢見、江戸に上京松平新五左衛門の屋敷に寄宿、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川秀忠より光松山放生會寺の寺号を賜ったという。
 開創当時から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っていたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し今の地に本尊聖観世音菩薩が遷された。
 このように当山は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、多くの人々の尊信を集めている。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、今日最後の目的寺、十六番札所安養寺へ向かう。早稲田通りの早稲田駅から神楽坂駅まで、地下鉄東西線にて移動、神楽坂駅より早稲田通りを飯田橋方面に少し歩き、神楽坂上交差点を左に折れると左手に安養寺がある。放生寺より歩くと1.9km。

第十六番札所   醫光山 長壽院 安養寺  通称 神楽坂聖天
   宗派  天台宗
   本尊  薬師瑠璃光如来
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開山  慈覚大師円仁和尚 天正19年(1591)
   東京都新宿区神楽坂6-2

 安養寺は、慈覚大師円仁和尚の創建で、始めは江戸城内にあったが、徳川家康江戸入府に伴い平河口に移され、そして田安に移り、現在地へ移転したという。
 札所本尊の十一面観世音菩薩は、聖天さまをおまつりする聖天堂の内陣に祀られていて、住職が回峯行百日満行の折、叡南祖賢大行満より賜った霊仏という。
 

 参拝後、ご朱印を頂き、神楽坂上交差点に出て解散。
 
 台風11号の余波で生憎の雨。10時に地下鉄方南町駅に集合したのは4名だ。まずは十七番札所の寶福寺へ。2番出口を出て、方南通りから右斜めの細い道を進み、神田川に架かる小さな橋を渡り少し行くと、左手に多田神社と並んで寶福寺がある。方南町駅よりおよそ0.6km。

第十七番札所   如意輪山 寶福寺  通称 中野観音


   宗派     真言宗豊山派
   御本尊   聖徳太子
   札所本尊  如意輪観世音菩薩
   創建 年代不詳
   東京都中野区南台3-43-2

 宝福寺の創建年代は不詳だが、江戸三十三観音ガイドによると、「聖徳太子がが諸国を巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として堂を建立し、如意輪観音像を奉安し、国家安穏をお祈りされ、その後聖武天皇の時代に信行大挿図が上宮聖徳太子孝養の像を刻んで祀ったことからであると伝えられています」とあり、古くから当地にあったことがわかる。
 札所本尊の如意輪観音は、観音堂に安置されていたが、観音堂は平成21年に火災で焼失、現在再建中で、本堂内に安置されている。そして江戸時代の頃から中野観音といわれてきた。
 境内には筆塚碑がある。この筆塚は、師弟の使用した毛筆を納めて供養し、学業上達を願ったものと考えられる。この「筆塚」の字は、戸村直衛という人が書いたもので、明治の初めに建てられたと考えられている。
 戸村氏は、明治三年、雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めていた。
 
 
                                      筆 塚 碑
 
 参拝後、ご朱印を頂き、第十九番札所東圓寺へ向かう。来た道を戻り、神田川を渡った先を右に折れ、方南通りを「弥生町六丁目」の交差点で横切り、細い道を進む。コーシャハイム中野弥生町の前を左に折れ、善福寺川を渡り、佼成会通りを横切るとその少し先左手が東圓寺である。宝福寺よりおよそ1.0km。

第十九番札所   医王山 悉地院 東圓寺


   宗派     真言宗豊山派
   御本尊    薬師如来
   札所本尊  聖観世音菩薩
   開創 天正元年(1573)、備後国の僧祐海
   東京都杉並区和田2-18-3

 東圓寺は、真言宗豊山派の寺で薬師如来像を本尊とし、江戸期に造られた聖観音像も安置されている。
 本堂は、徳川家康が入府した頃に九州から出府した三谷氏の発願により改築されたと伝えられ、さらに昭和7年に再改修したものである。
 境内にある観音堂は、江戸三十三観音の第十九番札所である。

 
 
 
観   音   堂
 
 参拝後、ご朱印を頂き、第十八番札所真成院へ向かう。佼成会通りへ出て左折、暫らく歩き、中野富士見町から地下鉄丸ノ内線で四ツ谷駅まで移動。運よく雨は上がってくれた。四ツ谷駅より新宿通りを新宿方面に歩き、「四谷一丁目」信号の少し先、ジョナサンの角を左に折れ、突き当りを右に曲がりすぐ左の観音坂を下ると右手が真成院だ。東圓寺から中野富士見町駅まではおよそ0.7km、四ツ谷駅より真成院まではおよそ0.6kmである。

第十八番札所   金鶏山 真成院   通称 潮干観音


   宗派  高野山真言宗
   御本尊 阿弥陀如来・金剛界大日如来・釈迦如来
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   開山 慶長3年(1598) 清心法印
   東京都新宿区若葉2-7-8

 真成院は、豊臣秀吉が死去した年にあたる慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、 本堂と観音堂が失われたが、天保八年(1837)に再建。 昭和二十年五月、空襲により再び失われたが、戦後に再建。 昭和四六年に、現在の寺院になる。
 観音堂は近代的な建物の最上階にあり、扉を開けると、中は立派な仏殿で、正面に札所本尊の十一面観世音菩薩像、通称潮干観音が祀られている。
 潮干観音という名の由来は、かつて真成院の近くが海で、潮の干満によって観音像の台座が常に濡れていたことからそう呼ばれたそうだ。
 潮干観音は元々、戦国時代の武将・村上義清の守護観音だった。信濃の豪族だった義清は、 信濃攻略を進める武田信玄を一度は撃退したものの、その後に敗れ、越後の上杉謙信元へ蟄居。 義清没後、孫の村上兵部道楽斎は、上杉家に従って大阪夏の陣に出陣。 江戸に入った際、身を隠す必要に迫られ、真成院が匿った。 その返礼として家宝の観音像を納めたいとの意を受けて勧請し、以後四百年にわたって人々の篤い信仰に支えられてきた。
 
  
観     音     堂
 
 参拝後、ご朱印を頂き、第24番札所梅窓院へ向かう。真成院の前の通りを南に下り、角にサンクスのある十字路を右に折れ、道なりに暫らく歩くと外苑東通りに出る。そこを左に折れ信濃町駅前を通って、神宮外苑の周りを歩き、いちょう並木を抜け、青山通りに出る。右折し少し歩くと、外苑前交差点の左手に梅窓院がある。真成院からおよそ2.3km。
 金明孟宗竹の竹林の参道があり、その先のほうに山門が建っている。山門を通り抜けると、ここが梅窓院の境内である。

第二十四番札所   長青山 寶樹寺 梅窓院


   宗派  浄土宗
   御本尊 阿弥陀如来
   札所本尊 泰平観世音菩薩
   創建 寛永20年(1643) 開山 大本山増上寺十二世普光観智国師、
       開基 郡上八幡城主青山大蔵少輔幸成
   東京都港区南青山2-26-38

 梅窓院は、寛永20年(1643)徳川家康の家臣であった老中青山幸成公逝去の際、青山公の下屋敷に建立したのが始まりという。以後、青山家の菩提寺として、今日まで歴代の当主十三代が祀られている。
 堂宇も戦災による焼失や老朽化で幾度か建替えられ、現本堂は平成16年に落慶式を行った近代的な建物である。
 本堂は階段を上った本堂棟の2階にあり、本尊の阿弥陀如来が安置されている。阿弥陀仏は、山の手六阿弥陀の一つとして信奉されていた。 本堂棟1階にある観音堂には、古来より「青山の観音様」と愛称されてきた、 泰平観世音菩薩が安置されている。
 泰平観音は、はじめ鑑真和上が中国より招来し、奈良東大寺大仏殿に奉安されていたが、源頼義公親子が奥州討伐の際に、この観音尊像を念持仏として捧持し、陣中守護仏とした。そして奥州の地がその公徳により泰平となったので「泰平観音」と名付けられ、南部公に伝えられたという。
 
 
 
     祖  師  堂                     参道脇に佇むかわいい地蔵様

 参拝後、ご朱印を頂き、第二十二番札所長谷寺へ向かう。「南青山三丁目」交差点を左折し、外苑西通りを青山墓地に沿って暫らく歩き、少し遠回りになるが、西麻布交差点を右折し六本木通りを渋谷方面に進み高樹町交差点を右に折れると正面に長谷寺の山門が見える。梅窓院からおよそ2.1km。

第二十二番札所   補陀山 長谷寺(ちょうこくじ)  通称 麻布大観音



   宗派  曹洞宗<BR>
   御本尊  釈迦牟尼仏
   札所本尊 十一面観世音菩薩
   創建  慶長3年(1598) 開山 門庵宗関大和尚
   東京都港区西麻布2-21-34

 長谷寺は、山口重政が母(織田信秀臣岡部彦九郎正房女、法名長谷寺殿南室妙薫)のため、門庵宗關和尚を開山に迎え、龍雲院と号して赤坂溜池に天正12年(1584)創建、その後当地へ移転したという。現在は大本山永平寺の東京別院となっている。
 長谷寺開創以前から観音堂は存在し、小さな観音像が祀られてあったという。
正徳6年(1716)、元々あった小さな観音像を胎内に納めた2丈6尺の大観音像が建立され、江戸観音霊場の札所となり民衆の信仰を集めた。
 この十一面観世音菩薩は、大和長谷寺、鎌倉長谷寺と同木同体の日本三大長谷観音と称せられていた。
 昭和20年(1945)、戦火により伽藍共々観音堂は焼失してしまった。三十余年の後、観音堂再建の働きがあり、昭和52年(1977)に現在ある麻布大観音及び観音堂が再建された。
 麻布大観音と呼ばれる十一面観音像は、樟の一木彫りで像高3丈3尺(約10m)、右手に錫杖を持ち、左手には水瓶を持つ「長谷寺式十一面観世音菩薩」で、木造として国内最大級の大観音像である。
 制作は日本芸術院会員の大内青圃氏によるものである。
 
 
 
観音堂(圓通閣)             十一面観世音菩薩(麻布大観音)

 参拝後、ご朱印を頂き、六本木通りに出て、渋谷方面におよそ1.9km歩き、渋谷駅に到着。ここで解散。

                                                  その3につづく

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