第10日目(6/30 SAT) パリ市内観光〜帰国
最終日もまた晴天。今朝も、娘が近くでパンを買ってきて、ホテルの部屋で食べる。パリCDG空港発が14:40なので、午前中は時間があるので、かみさんと二人でオランジュリー美術館へ。娘は買い物とかで別行動だ。地下鉄でコンコルド駅で下り、地上に出ると、そこがコンコルド広場である。
パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置している。1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。
フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへの処刑が行われた刑場でもある。
コンコルド広場 |
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1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始め、広場の中心部には、エジプトのルクソール神殿から運んできた、高さ23mのルクソール・オベリスク(クレオパトラの針)が置かれている。
コンコルド広場 |
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広場のシンボルであるルクソール・オベリスクは、古代エジプト(特に新王国時代)期に製作され、神殿などに立てられた記念碑の一種である。 |
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南北に2つ配された噴水は、ローマ、サン・ピエロト広場のベルリーニの噴水を模して作られたらしい。 |
広場に面して建つ、旧海軍省(手前の建物)。奥の建物はホテル・ド・クリヨン。 |
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広場に隣接するチュイルリー公園の入口ゲート。 |
コンコルド広場とセーヌ川を挟んで対岸にあるブルボン宮は、ルイ14世とモンテスパン夫人との間に生まれた娘のブルボン公爵夫人のために、1722年に建築家ガブリエルによって建てられた。 |
コンコルド広場ブラブラして、9時の開館と同時にオランジュリー美術館に入る。コンコルド広場の隣、チュイルリー公園内にある、印象派とポスト印象派の美術館である。もともとはチュイルリー宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったという。
オランジュリー美術館 |
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1927年、時の首相クレマンソーの提案により、モネ本人の意思で『睡蓮』が寄贈され、国立美術館として整備された。ポール・ギョ−ムのコレクション、モネ、ルノワール、セザンヌなどの印象派、モディリアーニ、ユトリロなどの名作が揃っている。 |
1階の睡蓮の間は、白い壁の楕円形の展示室2部屋からなり、それぞれに4枚に区切られた、合計8枚の睡蓮の絵が展示され、ぐるっと360度を睡蓮の絵に囲まれる。しばし中央のいすに座り、素晴らしい空間を愉しむ。
(この部屋は写真撮影が禁止されているので、パンフレットの写真を転載しました)
オランジュリー美術館 睡蓮の間 |
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地下1階には、パリの画商だったポール・ギョームのコレクションである、モネのほか、ルノワール、セザンヌなどの印象派や、ピカソ、マティス、アンリ・ルソー、モディリアーニ、ユトリロなど、パリ派(エコール・ド・パリ)の名作が展示されている。こじんまりとした美術館だが、なじみの画家の名作が多く、じっくりと鑑賞することができた。
オランジュリー美術館 |
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アメデオ・モディリアーニ作、ポール・ギヨームの肖像。 |
アンリ・ルソー作、婚礼。 |
ポール・セザンヌ作、赤い屋根のある風景 |
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オーギュスト・ルノワール作、ガブリエルとジャン。 |
オーギュスト・ルノワール作、ピアノに寄る少女たち。 |
オーギュスト・ルノワール作、二人の少女。 |
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オーギュスト・ルノワール作、長い髪の浴女 |
オーギュスト・ルノワール作、手紙を持つ女 |
クロード・モネ作、アルジャン・トゥイユ |
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アンリ・マティス作、左:女性の部屋、右:青いオダリス |
パブロ・ピカソ作、タンバリンを持つ女 |
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アンドレ・ドラン作、アルルカンとピエロ |
モーリス・ユトリロ作、ラ・メゾン・ローズ(ベルリオーズの家) |
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モーリス・ユトリロの部屋 |
シャイム・スーチンの部屋 |
名画の鑑賞を終え、まだ時間があるので、地下鉄でオテル・ド・ヴィルまで行き、セーヌ川を渡りシテ島にあるノートルダム寺院へ。聖母マリアを称える目的で、1163年に着工、以降200年余の歳月をかけて1345年に完成した、ローマ・カトリック教会の大聖堂で、ゴシック建築を代表する建物である。
「ノートル・ダム」とは「われらの貴婦人」の意味で、随所に施された繊細で優美な彫刻と、全体の色合いから「白い貴婦人」とも呼ばれている。周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。
1422年にアンリ6世、1804年にはナポレオン・ボナパルトの戴冠式が行われており、ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台にもなったところである。
今日は何やら行事が行われていて、内部の見学はできなかった。残念!
途中、シテ島のセーヌ川の河岸にある、パリで唯一の常設の小さなシテ島の花市を覗き、シテ島西側のセーヌ河畔にあるかつての牢獄、コンシェルジュリを見ながらホテルに戻る。
コンシェルジュリは、もともとフィリップ4世の宮殿であったが、14世紀後半に牢獄として使われ始め、フランス革命の際には、多くの王族、貴族などが収容され、「死の牢獄」「ギロチン控えの間」とよばれたところである。
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